佐々成政の軍用金

2023年03月15日

それでは、佐々成政は富山城落城の際に再興を期して軍用金を鍬崎山に隠したのでしょうか。

成政はその後、秀吉から肥後国へ転封されるわけですから、軍用金をそのままにしておくのはおかしな気がします。

埋蔵金の目的はいったん横に置き、成政の生涯には、さらさら越え以上に謎と思われる出来事があります。

それは小牧・長久手の戦いの後、秀吉が自ら富山城を攻めながら(富山の役)、降伏した成政の命を助けたことです。

成政は、織田信勝・徳川家康が秀吉と和議を結ぶと、さらさら越えでわざわざ二人の元に出向いて再挙を迫ったほどの「反秀吉派」ですから、秀吉には許しがたい存在でしょう。

降伏を申し入れた成政は髪を剃り、僧衣を身に着けて秀吉への恭順の意を示したとされますが、それで済むほど戦国時代は甘くないと思われます。

後年、国人一揆を鎮圧できなかった成政に切腹を命じた秀吉の態度とも一貫しません。

それではなぜ、富山の役で秀吉は成政を殺さなかったのか。

素人考えであることは百も承知ですが、成政が領内に蓄えていた大量の黄金を差し出し、黄金好きの秀吉の許しを得たと考えるのが自然ではないでしょうか。(帰雲城の内ヶ島氏理のケースと同じです)


今回は机上の推理だけになりましたが、佐々成政の埋蔵金伝説は巷でいわれているほど信憑性はないのではないかというのが私の結論です。(この項終わり)


歌川国芳 「太平記英勇伝 佐田陸奥守有正 佐々成政」2
 歌川国芳 「太平記英勇伝 佐田陸奥守有正 佐々成政」



(08:00)

2023年03月13日

佐々成政といえば何といっても「さらさら越え」が有名です。

天正12(1584)年12月、北アルプス・立山連峰のザラ峠と針ノ木峠を越え、現在の長野県大町市を経由して、浜松の徳川家康と面会したとされるものです。

大町市の西正院大姥(おおば)堂には、成政一行が旅の安全を祈って運んできたという大姥尊像が安置されています。

厳寒期に立山連峰を越えるのは現代の装備と技術をもってしても難しく、以前から史実なのかどうか疑問視されていましたが、近年、新史料が見つかり、新たな展開を迎えています。

その史料とは、成政側が村上義長という武将に送った複数の書状です。

成政はその中で、さらさら越えの際に義長の元を通り、世話になったことへの感謝を伝えています。

義長は信濃の武将、村上義清の次男で、越後(新潟県)の上杉景勝に仕えていましたが、離反して徳川家康に近づこうとしていました。

義長は当時、越後領内にいたという説と、追放されて飛騨地方にいたという説の二つがあります。

成政が通った道筋について、前者からは新潟県内を経由する「糸魚川ルート」、後者からは岐阜県内を経由する「安房峠ルート」が提唱されています。

さらさら越えが、これまでいわれてきたような「立山ルート」ではなく、「糸魚川ルート」あるいは「安房峠ルート」だとすると、成政が立山ルートの途中の鍬崎山で軍用金を隠したという話はありえなくなります。(この項続く)


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 西正院大姥堂の大姥尊像(長野県大町市のホームページから)

(09:00)

2023年03月09日

埋蔵金の信憑性を検討するために、佐々成政の軍用金はどんな目的で隠されたのか、そもそも佐々成政(1536?~1588年)とはどういう武将だったのかという点に焦点を当ててみたいと思います。

尾張出身の成政は織田信長に仕え、朝倉義景の追討や石山本願寺の一向一揆鎮圧などで功を挙げて、天正9(1581)年に富山城主となりました。

翌10年の本能寺の変で信長が討たれると、成政は反秀吉の立場を取ります。

天正12(1584)年に信長の次男信雄(のぶかつ)が徳川家康と組んで、秀吉を相手に小牧・長久手の戦いを起こすと、成政も秀吉方の前田利家を攻めます。

信雄・家康と秀吉の間で和議が成立すると、成政は厳冬の北アルプスを越えて(有名な「さらさら越え」)浜松で家康と会い、再挙兵を直談判します。

しかし、家康の翻意はならず、孤立無援となった成政は秀吉に攻められて降伏、越中東部の新川郡を除くすべての領土を取り上げられ、大坂詰めとなります。

その後、秀吉の九州討伐に加わり、肥後(熊本県)城主に返り咲きますが、国人一揆を収めることができず、その失政を問われて天正16(1588)年、切腹させられました。

さて、肝心の成政の軍用金については、さらさら越えの際に家康への手土産にしようとして途中で隠したという説、秀吉に降伏した際に将来の再興資金として隠したという説の二通りがあります。

その額は百万両とも言われますが、成政が領内に「越中の七かね山」と呼ばれる金山を抱え、馬印や旗指物が金色だったことからも、豊富な金を所有していたことは間違いないようです。(この項続く)


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 佐々成政が生まれた比良城の跡地=名古屋市西区で

(07:00)

2023年03月07日

高尾という人物が中山氏に語った佐々成政の軍用金の目撃譚のどこがおかしいか。

一つは、怪しまれないために北海道に金鉱を買い、黄金の延べ板を吹き替えて、そこから産出したように偽装するという話です。

大勢の家来を使っても、黄金の延べ板入りの49個の甕を、標高2090㍍の鍬崎山の中腹まで運ぶ作業は大変だったに違いありません。

それを再び山から下ろして、さらに北海道まで移動させるというのは並大抵のことではないでしょう。

こちらの方がよほど多くの人の目に触れて怪しまれます。

埋蔵金の発見を公にしたくないのなら、私なら少しづつ持ち出して現金化します。

もう一つは、高尾が中山氏に簡単に打ち明けたことです。

上山兄弟が死んだ後、埋蔵金の存在を知っているのは高尾だけなのですから、その情報を赤の他人と共有するというのは到底考えられません。

誰にも話さず、埋蔵金が見つかるまで探し続けるというのが人情でしょう。(それでも見つけられない場合は、自分の子孫に託すというのが、埋蔵金探しの通例です。中山氏本人も探索記録や地図を長男に遺しています)

というわけで、佐々成政の軍用金の目撃譚はまったくの作り話ではないかもしれませんが、どこかに大きな嘘が混じっているような気がしてなりません。

中山氏が鍬崎山と周辺をしらみつぶしに探して見つけられなかったのも、その嘘に引きずられたからではないでしょうか。(この項続く)


甕
 黄金の延べ板が詰まった甕は49個あったというが…

(08:00)

2023年03月05日

すべてを打ち明けた上山は、高尾を仲間に加えることを約束し、その上で「弟の都合があるので3年だけ待ってくれ。そうしたら、3人で黄金を運び出そう」と話します。

ところが、上山からは3年たっても、5年たってもいっこうに連絡がありません。

高尾は騙されたと悔しがりましたが、昔の鉱夫仲間から、上山が北海道の鉱山でダイナマイトの爆発事故を起こし、弟と一緒に死んだことを知らされます。

事態は一転、いまや佐々成政の軍用金のありかを知っているのは高尾一人だけとなりました。

実は高尾は下山途中、すれ違った住民に地名を尋ね、そこが「ほんみや(現在の富山市大山町本宮)」で、下りてきた山が「鍬崎山」であることを確認していました。

高尾は黄金の延べ板を回収すべく、岩穴を探します。

しかしながら、記憶を頼りに何度山を歩いても、たどり着くことができず、遂には財産を使い果たしてしまいました。

以上が高尾が中山氏に語った、佐々成政の軍用金を巡る顛末です。

(この話には畠山清行氏が、千葉の競馬場で知り合った高橋という人物から聞いたという別のバージョンもあります。そこでは上山は黒川と名前を替え、高橋が目撃した黄金の延べ板入りの甕は3個で、ほかに6つの洞窟に3個ずつ隠されているという内容にすり替わっています)

さて、埋蔵金伝説の信憑性を考える上で、実際にお宝を見たという話に勝るものはありません。

中山氏が埋蔵金の存在を信じて、その探索に半生を費やしたの理解できる気がします。

ただし、よくよく考えてみると、この話にはおかしな点が二つあります。(この項続く)


本宮駅
 富山地方鉄道・本宮駅=富山県大山町本宮で

(09:00)