法輪寺の黄金伝説

2023年01月14日

法輪寺は名鉄瀬戸線の大森・金城学院前駅で降りて、線路沿いに瀬戸方向に向かって歩いて、5分ほどの場所にあります。

近くには、昭和23(1948)年に起き、36人が亡くなった名鉄瀬戸線脱線転覆の犠牲者の慰霊碑と交通安全地蔵が建っています。

寺の山門前には「佐藤次信公 佐藤忠信公 舊跡(きゅうせき)」と記した石柱が建っています。

山門をくぐってすく左に佐藤兄弟と乙和御膳の供養塔(宝篋印塔)があります。

連休中の突然の訪問だったのですが、江口宏見住職にお話を伺うことができました。

謎の一文についてお聞きすると、以前、本尊の釈迦牟尼像を動かす機会があり、江口住職自身が確認したとのこと。

文献によって、仏像に記されていたとか、仏像の中に入っていた紙に書かれていたとか、記述が異なるのですが、正確には「仏像を支える台座の心棒に記されていた」そうです。

そして、金千枚を置いたとされる「牛刀二日」の意味についてですが、江口住職に思い当たる場所はなく、専門家に聞いてもわからなかったということです。

法輪寺がもともとあったのは南へ1キロほど離れた守山警察署の近くで、寛文2(1662)年に今の場所に移りました。

乙和御膳の金千枚が現在も埋まっているかどうかはわかりませんが、いずれにしろ「牛刀二日」の解読がカギとなりそうです。(この項終わり)


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 法輪寺の本尊の釈迦牟尼像=名古屋市守山区の法輪寺で

追記 江口住職のご厚意で本尊の釈迦牟尼像を撮影させていただきました。ご協力に感謝申し上げます。法輪寺由緒によると、運慶作ということですが、その真偽はさておき、見ていて引き込まれるような素晴らしい仏像です。

(09:00)

2023年01月13日

法輪寺の黄金伝説には若干のバリエーションがあります。

たとえば、左藤継信・忠信の母、乙和御膳は息子たちに会うために京都に向かい、途中、疲労で病気になって法輪寺で休養することになった。

二人の死を知らせるために奥州に向かっていた従卒が近くを通り、老母のうわさを聞きつけて法輪寺を訪ねる。

従卒から二人の討ち死にの様子を聞いた乙和御膳は嘆き悲しみ、村人も同情して、以来この村では新年の門松飾りを止めてしまった、という内容です。

ただ、話としては前回紹介した内容の方が現実性がありそうです。

佐藤兄弟と乙和御膳をめぐる逸話は、戦で子供を失った母親の悲しみを訴える普遍的なストーリーとして、各地に残っています。

法輪寺とほとんど同じ話が、新潟県出雲崎町の正応寺にも伝わっています。

長野市の善光寺にも佐藤兄弟の供養塔があり、乙和御前が二人の冥福を祈って建てたとされます。

このほか、義経が佐藤基治(兄弟の父親)の居城である大鳥城(福島市)に立ち寄り、基治と乙和御前に二人の活躍を報告したという話や、兄弟の妻たちが二人の甲冑を身に着け、悲しみにくれる乙和御前を慰めたという話も知られています。

法輪寺の伝承が、数多ある伝承の一つとして影が薄くなっているのは否めません。

しかしながら、乙和御膳が金千枚を埋めたという黄金伝説は、同寺にしかありません。

そして、やはり注目は本尊に記されていたとされる謎の一文でしょう。(この項続く)


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 佐藤継信・忠信兄弟と乙和御膳の供養塔=名古屋市守山区の法輪寺で

(08:00)

2023年01月11日

以前にこのブログで、愛知県内の埋蔵金伝説についてほとんど調べ尽くしたと記しましたが、今回取り上げる「法輪寺の黄金伝説」が本当の最後となります。

私が知らない県内の埋蔵金伝説はまだまだあるはずで、引き続き資料や文献の調査は続けますが、一応の区切りといえそうです。

法輪寺(名古屋市守山区)の黄金伝説は地元ではそれなりに知られているようですが、埋蔵金関連の書籍などには一切取り上げられていません。

話が少々出来すぎていることが一因かと思われますが、実際に調べてみた私の感想では、ほかの埋蔵金伝説に勝るとも劣らぬ信憑性があるように思われます。

まだ誰も解読できていない謎の一文が、埋蔵金発掘のカギになっている点にも大きな魅力を感じます。

まずは黄金伝説の内容を記します。

平安時代末期、藤原秀衡の命により源義経の家臣となった佐藤継信、忠信兄弟は、平家討伐で手柄を立てるが、継信は屋島の戦いで戦死し、忠信も義経が兄頼朝に追われる身となった後、京都で潜伏中に襲撃され、自害する。

文治3(1187)年、息子たちを弔うために奥州から京都へ向かった母親の乙和御前は、途中、法輪寺(当時は尼寺の正宗庵)に立ち寄り、しばらく滞在するうちに、ここに仏殿や山門を設け、故郷から仏像も取り寄せて本尊とし、息子たちの冥福を祈ることにした。

後年、本尊の釈迦三尊像の釈迦牟尼像の台座から「以後為造立金子千枚 此御寺牛刀二日置之也 六月吉祥日」と書かれた一文が見つかり、乙和御前が将来、荒廃した寺を再建するために金千枚を埋め、そのありかをひそかに記していたものと分かった。

金千枚を見つけようと、あちこちが発掘されたが、今も見つかっていない。

謎の一文を読み下し文にすると「もって後の造立のために金子千枚 この御寺の牛刀二日にこれを置くなり 六月吉日」といったところでしょうか。(この項続く)


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 法輪寺=名古屋市守山区で

(08:00)