源敬公廟の埋蔵金

2023年01月08日

源敬公廟の埋蔵金探しに関わる余談です。

源敬公廟を訪ねた後、定光寺の本堂の西側にある開山堂に「朝日さし夕日かがやく…」という埋蔵金伝説にお決まりの歌が書かれた扁額を見つけ、これは数百万両の軍用金のありかを示した暗号ではないかと少し興奮しました。

前述の「定光寺誌」によると、沓掛村(現在の豊明市)の観音堂にまつられていた観音菩薩が明治6(1873)年、この開山堂に移され、その御詠歌(一般信者が霊場巡礼の際に唱える歌)が記されているようです。

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 開山堂に掲げられた額。埋蔵金のありかを示しているかと思いきや。

解読文を以下に記します。(古文書の学習がここで少し役立ちました)

城東新西国 第二十七番

朝日さし 夕日かがやく この山に

花のとぼそも 開くなるらむ

山主 廉堂

「花の枢(とぼそ)を開く」というのは「花でいっぱいにする」といった意味でしょうか。

「廉堂」は明治34(1901)年から昭和25(1950)年まで定光寺の住職を務めた廉堂全能のことだと思われます。

もう一つ、今回の埋蔵金探しとは関係ないのですが、定光寺の近くに織田信長の末裔が館長を務める「西山自然歴史博物館」があり、織田信長のデスマスクが保管されているという話(本当なら、歴史的大発見ですが)をネットで見つけ、ついでと言っては失礼ですが、足を延ばすことにしました。

博物館の入り口には「古代女王卑弥呼の石像安置」「応永の乱出陣戦勝祈願地」などと記された看板も立てられ、否が応にも興味を掻き立てられましたが、人の気配はありません。

看板の連絡先に電話すると、館長さんが出られて「コロナの影響で現在は休館中。コロナが収まったら来てください」とのことでした。

埋蔵金についてのお話も何か聞けるのではないかと思っていたので、残念です。(この項終わり)


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 西山自然歴史博物館の入り口=いずれも愛知県瀬戸市で


(09:00)

2023年01月07日

焼香殿のさらに奥の一段高くなった場所に源敬公墓があります。

円形墳墓で、墳丘の上に石標が立ち、周囲には角柱の石柵が巡らされています。

さて、ここで数百万両の軍用金が埋蔵されているという石垣を捜しますが、畳2枚ほどの大きさの石も、隅に鉄のクサビが打ち込んであるという石も見つかりません。

もしかしたら地中に埋まっているのかもしれませんが、シャベルを使うわけにもいかず、埋蔵金探しはここでデッドエンドとなりました。

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  源敬公墓(尾張徳川家初代藩主義直の墓)

ところで、源敬公廟について調べていて気付いたことがあります。

それは、興正寺の大日堂の地下に埋まっているとされた尾張徳川家の駿府御譲金との共通点です。

源敬公廟は、定光寺付近の風光や自然を愛した徳川義直が自らの墓地の場所に定めたとされますが、太田正弘編「定光寺誌」(1985年)では違う見解が紹介されています。

すなわち、当時は関ケ原の戦いや大阪の陣を知っている人々がまだ生存していた時代で、定光寺は尾張徳川藩主が名古屋城から脱出した時の落ち着き先として設定されたものではないか、というものです。

興正寺は、尾張徳川家2代目藩主光友の帰依を受けて創建され、やはり、名古屋城と大日堂がトンネルで結ばれていたという伝説が残されていました。

さらに、興正寺の大日如来像が銅製なのは、いざというときに大砲にするためだという説もありましたが、源敬公廟の建物の屋根も銅板(銅の隠蔵が目的という説も)で葺かれています。

これだけ似通っていると、埋蔵金伝説が眉唾なのも同様かもしれません。(この項続く)

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 該当するような石は見つからず=いずれも愛知県瀬戸市で


(09:00)

2023年01月06日

前回のブログでは一言も触れませんでしたが、定光寺には埋蔵金伝説があり、ウィキペディアにも記されています。

埋蔵金が埋まっているとされる場所は、正確には源敬公廟で、とりあえず「源敬公廟の埋蔵金」と名付けてみました。

ウィキペディアが参考文献としている中野雅夫著「革命は芸術なり 徳川義親の生涯」には次のように記されています。

「定光寺の山頂にある藩祖義直の墓に、石垣をめぐらせたうちの一個が、畳二枚ほどの大きさで、隅に鉄のクサビを打ちこんである。その一枚の石をはずすと、なかに数百万両の軍用金が埋蔵してあるという」

ただし、これ以外の出典が今のところ見つかりません。

それにしても「畳二枚ほどの大きさ」「隅に鉄のクサビ」とかなり具体的に説明しており、これが本当なら、簡単に発見できそうです。

さて、本堂わきの「御廟御門」の入り口に置かれた木箱に拝観料100円を納め、石段を登って「獅子の門」「竜の門」をくぐると、いよいよい源敬公廟です。

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 源敬公廟の竜の門

慶安3(1650)年に徳川義直が亡くなった後、2年間かけて造られたもので、明から帰化した陳元贇(ちんげんぴん)が、儒教の祠堂に倣って設計したと伝えられています。

正面に立つ焼香殿(拝殿に相当)は寄棟造の直方体。

屋根は緑色の銅瓦葺で、魚形の正吻(せいふん)や蕨手(わらびて)を載せています。

日本の神社や寺院には見られない建造物で、いったい自分は今どこにいるのかと不思議な感覚にとらわれます。(この項続く)

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 焼香殿=いずれも愛知県瀬戸市で

(09:00)

2023年01月05日

初詣を兼ねて瀬戸市の定光寺を訪ねました。

室町幕府が成立した1336年の創建と伝わる古刹で、愛知県の公式観光ガイドによると、尾張の鬼門封じの役を担い、「参詣すれば災難はたちどころに消えて多くの福が授かる」と広く信仰を集めてきました。

尾張徳川家初代徳川義直の墓所である「源敬公廟(げんけいこうびょう)」があり、本堂の「無為殿」とともに重要文化財に指定されています。(源敬公は徳川義直の諡号、すなわち死後に贈られた名前です)

桜と紅葉の名所としても有名です。

最寄り駅はJR中央線の定光寺駅(住所は春日井市)で、昇りの道を歩いて30分近くかかりますが、途中、庄内川の渓流や、地元では心霊スポットとしてお馴染みの廃墟ホテル「千歳楼」を眺めることができます。

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 千歳楼=愛知県春日井市で

車で行けば、定光寺霊園の無料の駐車場に止めてすぐです。

三が日を過ぎたばかりで、まだまだ凄い人出だろうと思っていたのですが、意外にも参拝客は数人しかいません。

お札やお守りを売っているはずの寺務所も無人で、まるで開店休業状態です。

これがその理由なのかどうかは分かりませんが、境内には真新しい看板が立てられていて、そこには「前住職と前副住職は臨済宗妙心寺派より擯斥(ひんせき)の懲戒処分を受け、現在は僧侶ではありません」と記されています。

スマホでニュースを検索すると、3年ほど前に前住職らが檀家のお布施などを私的流用していたことが発覚したそうです。

以前に訪ねた興正寺もそうでしたが、お寺の運営も大変なようです。(この項続く)

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 定光寺の本堂「無為殿」=愛知県瀬戸市で

(16:00)