堂洞城の埋蔵金

2022年11月30日

堂洞城は、岐阜県の富加町と美濃加茂市にまたがる山(標高192m)の頂上にあります。

麓の富加町郷土資料館で、事前に地図をもらうことをお勧めします。

すれ違いができない細い道をずんずんと登りますが、登り切ったところに巨大な貯水タンクがあり、車を2、3台を駐車することができます。

そこから東へ100m歩くと、城主の岸勘解由らが酒盛りをしたと伝わる「八畳岩」、逆に西へ350mほど歩くと、堂洞城の主郭があった場所にたどり着きます。(途中、イノシシの侵入防止のために設けられた金網フェンスを通り抜けます)

曲輪は見られますが、それ以外には城があった痕跡は確認されません。

日曜日の昼間に訪ねたのですが、私以外の観光客はゼロ。

隣がゴルフ場らしく、ショットの音やプレーヤーの話し声がすぐ近くに聞こえます。

今回は、冒頭にも記しましたが、埋蔵金が埋まっている可能性はほとんとどないと判断し、歴史の勉強と観光を主目的に現地を訪ねました。

前述の美濃加茂市史には、堂洞城の埋蔵金について、親切な解説が記されています。

「朝日さし夕日輝く」所に埋蔵金が埋まっているという伝説は全国至るところにあるといっても過言ではない。…長者が死ぬ前にその財宝を埋め、そのありかを隠して謎のような歌を残しておいたというのが最も多いパターンで、これにつられて土掘りをし、無駄な金を使ったという人もたくさんある。堂洞城の埋蔵金も、この話の変形であるが、悲壮な最期をとげた岸勘解由に対する庶民の心情がこの埋蔵金伝説を生みだしたものであろうか。(この項終わり)


堂洞城址
 堂洞城の主郭があった場所に立つ説明版=岐阜県富加町で

(08:00)

2022年11月29日

堂洞合戦を巡るエピソードの中で、何といっても悲惨なのは、父親の佐藤紀伊守が織田信長に寝返ったために殺され、竹の串に貫かれて長尾丸山に晒された八重緑でしょう。

子供向けのマンガではさすがにこの場面をはっきりと描けず、シルエットで示唆しています。

「堂洞軍記」によると、忠能の家臣の西村治郎兵衛がその日の夜に忍び込んで死体を奪取し、龍福寺に弔ったそうです。

岸勘解由が残忍な人物に見えますが、八重緑はあくまで人質としてに差し出されていたのですから、殺されるのは覚悟していたことでしょう。

八重緑を巡っては5年前にちょっとしたニュースがありました。

実は、マンガに登場する「八重緑」という名前は、地元に伝承で伝えられてきたもので、史料の上では名前は不明でした。

ところが、マンガが出版された直後に、慶応3(1867)年に書写された「堂洞軍鑑記」が岐阜県富加町の旧家で見つかり、そこに「八重緑」という名前が記されていることがわかったのです。

マンガを読んだこの旧家の人間が、自宅の倉庫に古文書があることを思い出し、探して発見したそう。

富加町の教育委員会は「地域に残る口頭伝承には少なくとも150年の重みがあったことになり、地域の伝承が持つ意義を見直す成果となった」とコメントを出しました。

口頭伝承は信憑性が低くみられがちですが、そうとばかりはいえないようです。

このことは埋蔵金伝説にもあてはまるかもしれません。(この項続く)


堂洞軍記
 「堂洞軍記」の安政2(1855)年の写本(富加町郷土資料館所蔵)

(08:00)

2022年11月26日

堂洞合戦がどんな戦いだったのか、簡単にまとめてみます。

永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで今川義元を滅ぼした織田信長は、美濃への侵攻を本格化し、その足掛かりとして東美濃の攻略を図ります。

東美濃ではこれを阻止するため、関城の長井隼人(はやと)、加治田城の佐藤紀伊守、堂洞城の岸勘解由が中濃三城盟約を結んでいましたが、紀伊守は信長に内通します。

永禄8(1565)年、信長と紀伊守の軍が堂洞城を攻め、岸勘解由は息子の信房、長刀を手にした妻とともに必死に防戦しましたが、激戦の末に敗れます。

堂洞合戦の一部始終は「南北山城軍記」に詳しいのですが、そこには壮絶な逸話が記されています。

合戦の前、信長が金森長近を使者として勘解由のもとに送り、投降を勧めると、勘解由と信房の親子は「武士としての節義を失いたくない。覚悟のほどを見せよう」と断り、信房は金森の目の前で7歳と5歳の息子を殺してしまいます。

また、紀伊守の娘の八重緑(やえりょく)は人質として信房に嫁いでいたのですが、紀伊守が寝返り、信長と一緒に堂洞城を攻めようとしていることが分かると、刺し殺され、竹の串に貫かれて、加治田城からよく見える長尾丸山に晒されます。

さらに合戦が始まり、信房が討ち死にしたことを知った勘解由が涙を流すと、勘解由の妻は「武士が戦場で討ち死にするのは当たり前のこと」と諭します。(この後、妻と勘解由はそれぞれ「先立つも しばし残るも 同じ道と 思えば晴るる 夕暮れの雲」「待てしばし 敵の波風切り払い 共に至らん 極楽の岸」と辞世の歌を詠んで刺し違えます)

戦国時代は非情だったとはいえ、現代人にはちょっと信じ難い話です。(この項続く)


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 織田信長の東美濃侵攻の経路(「夕曇の城」より)



(08:00)

2022年11月25日

今回は歴史の勉強と観光をメインに、堂洞(どうぼら)城の埋蔵金を取り上げたいと思います。

堂洞城は岐阜県富加町にあった平山城で、斎藤道三、義龍(よしたつ)、義興(たつおき)の3代に仕えた岸勘解由信周(かげゆ・のぶちか)が城主でしたが、永禄8(1565)年の堂洞合戦で落城し、現在は城跡のみが残っています。

堂洞城の埋蔵金について、昭和53(1978)年発行の美濃加茂市史に、以下のような口承が記録されています。

勘解由は落城にあたって、軍用金を埋め、今わのきわに「夕日さす 朝日かげらふ堂洞城に 小金ざっくりかくし置く」と詠んで果てた。

だから、堂洞城址のどこかに、たくさんの黄金が埋まっているのだという。

織田信長による東美濃攻略の最大のヤマ場となった堂洞合戦は、「堂洞軍記」「南北山城軍記」など江戸時代に書かれた軍機物に描かれていますが、手軽に読める本があります。

富加町と美濃加茂市、坂祝町が平成29(2017)年に発行した「織田信長の東美濃攻略歴史PRマンガ『夕雲の城』」です。(残念ながら現在は図書館でしか入手できません)

マンガの主人公は加治田城主、佐藤紀伊守忠能(きいのかみ・ただよし)の家臣、涯良沢(がい・りょうたく)で、佐藤忠能の使者として信長側へ派遣され、内通を伝える人物です。

本来なら堂洞城主の岸勘解由を主人公としたいところですが、(これは私の想像ですが)子供向けの本ということで、できなかったのでしょう。

作者の苦労の跡がうかがえます。(この項続く)

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 マンガ「夕雲の城」のパネル=富加町郷土資料館で

(08:00)