小金下の埋蔵金
2022年11月21日
無量寺の近くに住む伊豆原さんからもお話を聞くことができました。
ご年配の女性の方で、先祖が立山に埋蔵金を埋めたという話を知っており、しばらく前には、同じ伊豆原姓の親戚が発掘を試みたそうです。
こうなると、「小金下の埋蔵金」よりも「伊豆原氏の埋蔵金」とした方が正確かもしれません。(実際のところ、立山の住所は莇生町立山で、莇生町小金下ではありません)
さて、いよいよ立山で埋蔵金を探索します。
周りが私有地でアクセスしにくいのですが、伊豆原さんのご自宅のそばのミカン畑から登らせていただけることになりました。
山といっても標高およそ74mの小さな山です。
竹と樹木が生い茂っていますが、それほど密集しておらず、以前に探索した一色山城や帰雲城と比べるとずっと歩きやすいです。
まずは、頂上部分にあったとされる祠跡を探しましたが、それらしいものは見つかりません。(小さな石柱のようなものがあり、金属探知機で調べましたが、反応はありませんでした)
この後、一時間ほど時間をかけて、金属探知機でかなり念入りに探索しましたが、見つかったのはアルミ缶一個だけ。
東側は東名高速道路で、山が切り開かれていることから、もしかしたら、道路を建設する際に埋蔵金が出土していたかもしれません。
というわけで、今回の埋蔵金探しも空振りに終わりました。(この項終わり。調査にご協力いただいた無量寺の山田住職に御礼申し上げます)
石柱のようなものが見つかったが…=愛知県みよし市莇生町立山で
ご年配の女性の方で、先祖が立山に埋蔵金を埋めたという話を知っており、しばらく前には、同じ伊豆原姓の親戚が発掘を試みたそうです。
こうなると、「小金下の埋蔵金」よりも「伊豆原氏の埋蔵金」とした方が正確かもしれません。(実際のところ、立山の住所は莇生町立山で、莇生町小金下ではありません)
さて、いよいよ立山で埋蔵金を探索します。
周りが私有地でアクセスしにくいのですが、伊豆原さんのご自宅のそばのミカン畑から登らせていただけることになりました。
山といっても標高およそ74mの小さな山です。
竹と樹木が生い茂っていますが、それほど密集しておらず、以前に探索した一色山城や帰雲城と比べるとずっと歩きやすいです。
まずは、頂上部分にあったとされる祠跡を探しましたが、それらしいものは見つかりません。(小さな石柱のようなものがあり、金属探知機で調べましたが、反応はありませんでした)
この後、一時間ほど時間をかけて、金属探知機でかなり念入りに探索しましたが、見つかったのはアルミ缶一個だけ。
東側は東名高速道路で、山が切り開かれていることから、もしかしたら、道路を建設する際に埋蔵金が出土していたかもしれません。
というわけで、今回の埋蔵金探しも空振りに終わりました。(この項終わり。調査にご協力いただいた無量寺の山田住職に御礼申し上げます)
石柱のようなものが見つかったが…=愛知県みよし市莇生町立山で
(09:00)
2022年11月20日
みよし市は名古屋市の中心部から高速道路を使って車で40分弱ほどのところにあります。
莇生町小金下の無量寺を訪ね、山田憲昭住職にお話を伺いましした。
5年前に語ったことは覚えていないということでしだが、埋蔵金伝説の詳細について、あらためてお聞きすることができました。(内容は少し違っています)
無量寺裏の立山の山頂にあった祠の下に軍資金を埋めたのは、徳川家康ではなく、桶狭間の戦いで敗れてこの地に逃げ延びた伊豆原六郎左衛門重房。
伊豆原氏は愛知県大府市の横根城の城主でしたが、家来とともにそのまま莇生町に住み着き、現在、同町にはその子孫である伊豆原姓の家が何軒もあるとか。
また、小金下という字名はこの埋蔵金伝説に因んで生まれたそうです。(三好町誌に記されているように、小金下という地名から埋蔵金伝説が生まれたわけではないようです)
さらに大正時代の終わりに、埋蔵金を見つけようと山を掘った人物がいたらしい。
日本姓氏語源辞典で伊豆原という姓を調べると、「愛知県大府市横根町の横根城に戦国時代にあった。愛知県みよし市莇生町では桶狭間の戦いの後に来住したと伝える」と確かに記されています。
三好市のほかの町ではこの姓はみられません。
山田住職は埋蔵金話を、今は亡き地元の長老から聞いたそうです。
「昔の資料が残っていればもっと詳しいことがわかるのだが、伊勢湾台風で水浸しとなり、処分してしまった」と残念がられていました。(この項続く)
無量寺。右奥が立山=愛知県みよし市莇生町小金下で
莇生町小金下の無量寺を訪ね、山田憲昭住職にお話を伺いましした。
5年前に語ったことは覚えていないということでしだが、埋蔵金伝説の詳細について、あらためてお聞きすることができました。(内容は少し違っています)
無量寺裏の立山の山頂にあった祠の下に軍資金を埋めたのは、徳川家康ではなく、桶狭間の戦いで敗れてこの地に逃げ延びた伊豆原六郎左衛門重房。
伊豆原氏は愛知県大府市の横根城の城主でしたが、家来とともにそのまま莇生町に住み着き、現在、同町にはその子孫である伊豆原姓の家が何軒もあるとか。
また、小金下という字名はこの埋蔵金伝説に因んで生まれたそうです。(三好町誌に記されているように、小金下という地名から埋蔵金伝説が生まれたわけではないようです)
さらに大正時代の終わりに、埋蔵金を見つけようと山を掘った人物がいたらしい。
日本姓氏語源辞典で伊豆原という姓を調べると、「愛知県大府市横根町の横根城に戦国時代にあった。愛知県みよし市莇生町では桶狭間の戦いの後に来住したと伝える」と確かに記されています。
三好市のほかの町ではこの姓はみられません。
山田住職は埋蔵金話を、今は亡き地元の長老から聞いたそうです。
「昔の資料が残っていればもっと詳しいことがわかるのだが、伊勢湾台風で水浸しとなり、処分してしまった」と残念がられていました。(この項続く)
無量寺。右奥が立山=愛知県みよし市莇生町小金下で
(09:00)
2022年11月19日
このブログで以前に「愛知の埋蔵金伝説」の一つとして紹介した「小金下(こがねした)の埋蔵金」については、「朝日さす夕日かがやく…」という決まり文句が出てくることから、信憑性はないと判断して無視していましたが、ネットで興味深い情報を見つけました。
愛知県みよし市莇生町小金下の無量寺の住職が5年前、地元のお話し会で「寺の裏の立山に、徳川家康の軍資金が隠されているという逸話があり、これを目当てに掘った痕跡がいくつもあった」と語ったというものです。
これが本当なら、埋蔵金の存在を信じて行動に移した人間が少なからずいたことになります。
そんなわけで、地元の埋蔵金伝説を調べ尽くす意味からも、「小金下の埋蔵金」を今回調査してみたいと思います。
まずは、埋蔵金伝説について記録した文献から。
1962(昭和37)年発行の三好町誌に「当町には、かねとよぶ地名がかなりに多い…『朝日さす夕日かがやく木の下に…。』の歌を残し、金の茶釜でも埋めてあると伝承された莇生字小金下は、金の字をあてたことから、あらぬ伝説を生じたものと思われる」という記述を見つけました。
埋蔵金伝説を「あらぬ伝説」と片付けてはいますが、地元にずいぶんと流布していたことが伺えます。
町誌は「莇生」という地名の由来に関する伝承も紹介しています。
永禄3(1560)年5月、桶狭間の戦いに敗れて逃げてきた武将を、農民が古井戸に隠し、草を覆って追っ手から助けた。
その武将が徳川家康で、草のお陰で助かったことから、地名を「莇生」と改めた。
作り話にしては出来過ぎな感じがしますが、もちろん、桶狭間の戦いで家康がこの地に逃げ延びたという史実はありません。(この項続く)
埋蔵金が埋まっているとされる立山=愛知県みよし市莇生町小金下で
愛知県みよし市莇生町小金下の無量寺の住職が5年前、地元のお話し会で「寺の裏の立山に、徳川家康の軍資金が隠されているという逸話があり、これを目当てに掘った痕跡がいくつもあった」と語ったというものです。
これが本当なら、埋蔵金の存在を信じて行動に移した人間が少なからずいたことになります。
そんなわけで、地元の埋蔵金伝説を調べ尽くす意味からも、「小金下の埋蔵金」を今回調査してみたいと思います。
まずは、埋蔵金伝説について記録した文献から。
1962(昭和37)年発行の三好町誌に「当町には、かねとよぶ地名がかなりに多い…『朝日さす夕日かがやく木の下に…。』の歌を残し、金の茶釜でも埋めてあると伝承された莇生字小金下は、金の字をあてたことから、あらぬ伝説を生じたものと思われる」という記述を見つけました。
埋蔵金伝説を「あらぬ伝説」と片付けてはいますが、地元にずいぶんと流布していたことが伺えます。
町誌は「莇生」という地名の由来に関する伝承も紹介しています。
永禄3(1560)年5月、桶狭間の戦いに敗れて逃げてきた武将を、農民が古井戸に隠し、草を覆って追っ手から助けた。
その武将が徳川家康で、草のお陰で助かったことから、地名を「莇生」と改めた。
作り話にしては出来過ぎな感じがしますが、もちろん、桶狭間の戦いで家康がこの地に逃げ延びたという史実はありません。(この項続く)
埋蔵金が埋まっているとされる立山=愛知県みよし市莇生町小金下で
(09:00)