重原城の埋蔵金伝説
2022年11月14日
さて、肝心の埋蔵金伝説の信憑性ですが、「朝日の照る、夕日の輝き」という朝日長者伝説の決まり文句が出てきた段階で、これは99%作り話だなと確信しました。
一介の武将がたくさんの金を持っていた理由もわかりません。
伝五郎は信心深く、領民に慕われていたといい、今川勢に滅ぼされた伝五郎への同情心が埋蔵金伝説という形で結晶したのでしょう。
ところで、一般にはあまり知られていない重原城の埋蔵金伝説ですが、近年、脚光を浴びる出来事がありました。
知立青年会議所が6年前、城跡から少し離れた空き地を会場に、町おこしイベントとして「知立埋蔵金発掘フェス」を開催したのです。
前述した地元のテレビ局「メーテレ」もこの話題に飛びつき、朝の情報番組で取り上げました。(八重野充弘氏も出演されています)
イベントには約1000人もの応募があり、やむを得ず約150人に絞ったそうです。
当日は、スコップを手にした親子連れが宝探しに奮闘。
会場には景品が当たるカプセルが事前に埋められ、「あった」「あった」という子供たちの喜びの声がこだましました。
本物の埋蔵金を見つけることはできませんでしたが、参加者はどれほど楽しい時間を過ごしたことでしょう。
自分の故郷の歴史に関心を持ち、郷土愛を育む絶好のイベントになったに違いありません。(この項終わり)
知立埋蔵金発掘フェスの様子(知立青年会議所のフェイスブックから)
一介の武将がたくさんの金を持っていた理由もわかりません。
伝五郎は信心深く、領民に慕われていたといい、今川勢に滅ぼされた伝五郎への同情心が埋蔵金伝説という形で結晶したのでしょう。
ところで、一般にはあまり知られていない重原城の埋蔵金伝説ですが、近年、脚光を浴びる出来事がありました。
知立青年会議所が6年前、城跡から少し離れた空き地を会場に、町おこしイベントとして「知立埋蔵金発掘フェス」を開催したのです。
前述した地元のテレビ局「メーテレ」もこの話題に飛びつき、朝の情報番組で取り上げました。(八重野充弘氏も出演されています)
イベントには約1000人もの応募があり、やむを得ず約150人に絞ったそうです。
当日は、スコップを手にした親子連れが宝探しに奮闘。
会場には景品が当たるカプセルが事前に埋められ、「あった」「あった」という子供たちの喜びの声がこだましました。
本物の埋蔵金を見つけることはできませんでしたが、参加者はどれほど楽しい時間を過ごしたことでしょう。
自分の故郷の歴史に関心を持ち、郷土愛を育む絶好のイベントになったに違いありません。(この項終わり)
知立埋蔵金発掘フェスの様子(知立青年会議所のフェイスブックから)
(08:00)
2022年11月13日
重原城の落城の話は、織田信長の旧臣の太田牛一が記し、史料としての信頼度も高いとされる「信長公記(しんちょうこうき)」に登場します。
そこには「駿河勢(今川義元)は、岡崎に在陣して、鴫原(重原)の山岡伝五郎の城を攻め滅ぼして乗っ取った」(現代語訳)とあります。
この後、今川勢は村木(愛知県東浦町)に砦を築き、これを信長が攻撃する(村木砦の戦い)のが天文23(1554)年1月24日ですから、実際に重原城が落城したのは埋蔵金伝説より1年早い22年のことでしょう。
現地を訪ねてみました。
名鉄三河線の重原駅から徒歩3分、上重原公民館の裏に「重原城址」と刻まれた石碑がひっそりと立っています。
説明板によると、重原城は一辺60mの方形区画を主郭とする平城で、敷地東側の竹林に空掘と土塁を確認できます。
重原城を巡っては、埋蔵金伝説以外にも幾つかの伝承が残されています。
一つは、伝五郎が今川勢の奇襲を受けて苦戦していると、権現石が大男に変身して敵の矢面に立ったという話で、この石は近くに祀られています。(埋蔵金伝説よりも、こちらの巨人伝説の方が面白いかも)
また、逃げ延びようとした伝五郎の息子が、今川勢に捕まって殺害されたとされる場所が、首切り坂という名前で残っています。
どちらも場所は少しわかりにくく、駅に案内板を設置してほしいところですが、住民には、首切り坂という名前は嫌がられるかもしれません。(この項続く)
権現石が祀られた祠=愛知県知立市上重原町で
そこには「駿河勢(今川義元)は、岡崎に在陣して、鴫原(重原)の山岡伝五郎の城を攻め滅ぼして乗っ取った」(現代語訳)とあります。
この後、今川勢は村木(愛知県東浦町)に砦を築き、これを信長が攻撃する(村木砦の戦い)のが天文23(1554)年1月24日ですから、実際に重原城が落城したのは埋蔵金伝説より1年早い22年のことでしょう。
現地を訪ねてみました。
名鉄三河線の重原駅から徒歩3分、上重原公民館の裏に「重原城址」と刻まれた石碑がひっそりと立っています。
説明板によると、重原城は一辺60mの方形区画を主郭とする平城で、敷地東側の竹林に空掘と土塁を確認できます。
重原城を巡っては、埋蔵金伝説以外にも幾つかの伝承が残されています。
一つは、伝五郎が今川勢の奇襲を受けて苦戦していると、権現石が大男に変身して敵の矢面に立ったという話で、この石は近くに祀られています。(埋蔵金伝説よりも、こちらの巨人伝説の方が面白いかも)
また、逃げ延びようとした伝五郎の息子が、今川勢に捕まって殺害されたとされる場所が、首切り坂という名前で残っています。
どちらも場所は少しわかりにくく、駅に案内板を設置してほしいところですが、住民には、首切り坂という名前は嫌がられるかもしれません。(この項続く)
権現石が祀られた祠=愛知県知立市上重原町で
(08:00)
2022年11月11日
今回取り上げるのはネットで見つけた重原城の埋蔵金伝説(愛知県知立市)です。
全国の埋蔵金伝説について最も詳しいのは、しばらく前に休刊となった雑誌「歴史読本」の埋蔵金特集号で、同書には畠山清行編として350件余りが紹介されているのですが、そこにはありません。
重原城の埋蔵金伝説が掲載されているのは、知立市教育委員会が昭和58(1983)年に発行した「池鯉鮒(ちりゅう)のむかし話」で、以下に抜粋して紹介します。
天文23(1554)年、京都に上ろうとした今川義元は、織田信長方の山岡伝五郎が城主を務める重原城を攻めた。
伝五郎はわずかの兵で、今川勢の数十万人の兵を迎え討つが、勝ち目はない。
同年5月のある夜、伝五郎は信頼する家臣を呼ぶと、「この城はこれ以上持ちこたえることはできない。いつか再興して義元を倒すために、城の中にある数十万両の黄金を誰もわからない場所に埋めろ」と命じた。
家臣は数人の手下とともに黄金を運び出し、地中に埋めるが、城に帰ると途中に敵の襲撃に遭い、手下はすべて殺されてしまう。
重い傷を負いながら城にたどり着いた家臣は、伝五郎に「朝日の照る、夕日の輝き」と黄金を埋めた場所を伝えた。
翌日、重原城は今川勢に攻め落とされた。
詳しくは後述しますが、地元のテレビ局「メーテレ」が6年前にこの埋蔵金伝説を取り上げ、放送した内容をネットで見ることができました。
同テレビ局が昔話の執筆者らに取材したところによると、地元に代々伝わる話のようで、正確には黄金数十万両ではなく、金の針金1000尋(ひろ)(約1.8km)だそうです。(この項続く)
重原城址の石碑=愛知県知立市上重原町で
全国の埋蔵金伝説について最も詳しいのは、しばらく前に休刊となった雑誌「歴史読本」の埋蔵金特集号で、同書には畠山清行編として350件余りが紹介されているのですが、そこにはありません。
重原城の埋蔵金伝説が掲載されているのは、知立市教育委員会が昭和58(1983)年に発行した「池鯉鮒(ちりゅう)のむかし話」で、以下に抜粋して紹介します。
天文23(1554)年、京都に上ろうとした今川義元は、織田信長方の山岡伝五郎が城主を務める重原城を攻めた。
伝五郎はわずかの兵で、今川勢の数十万人の兵を迎え討つが、勝ち目はない。
同年5月のある夜、伝五郎は信頼する家臣を呼ぶと、「この城はこれ以上持ちこたえることはできない。いつか再興して義元を倒すために、城の中にある数十万両の黄金を誰もわからない場所に埋めろ」と命じた。
家臣は数人の手下とともに黄金を運び出し、地中に埋めるが、城に帰ると途中に敵の襲撃に遭い、手下はすべて殺されてしまう。
重い傷を負いながら城にたどり着いた家臣は、伝五郎に「朝日の照る、夕日の輝き」と黄金を埋めた場所を伝えた。
翌日、重原城は今川勢に攻め落とされた。
詳しくは後述しますが、地元のテレビ局「メーテレ」が6年前にこの埋蔵金伝説を取り上げ、放送した内容をネットで見ることができました。
同テレビ局が昔話の執筆者らに取材したところによると、地元に代々伝わる話のようで、正確には黄金数十万両ではなく、金の針金1000尋(ひろ)(約1.8km)だそうです。(この項続く)
重原城址の石碑=愛知県知立市上重原町で
(08:00)