帰雲城の埋没金

2022年11月02日

天正13(1585)年、内ヶ嶋氏里が佐々成政を助けるために越中に出兵し、留守となった領地に、豊臣秀吉の命を受けた越中大野の金森長近が攻め込みます。

金森は同年8月、南の要衝の内牧戸城を陥落させ、氏理は急遽帰国しますが、領民もすでに金森に従っていて、降伏を迫られます。

さて、ここからが問題です。

秀吉方に降伏した氏理は、領地の一部を没収されるものの、白川村の本領の統治を許されるのです。

これは異例といってもいい措置でしょう。

そして、そのことを祝う宴会を帰雲城で明日開こうと準備していた11月29日に、大地震に見舞われます。

秀吉が所領の安堵を認めたのは、氏理にそのまま金の採掘を続けさせ、上納させた方が得策だという判断があったとされます。

それもあるかもしれませんが、その前に、氏理が城内にある金のほとんどを秀吉に献上し、赦免を得たと考えるのが自然でしょう。

とすれば、帰雲城と一緒に財宝は埋まっていないことになります。

もちろん、それを裏付ける史料は見つかっていませんが、といって否定する材料もありません。

埋蔵金の期待値を、①埋蔵金の額②埋蔵金伝説の信憑性③埋蔵金が見つかる可能性ーの3つを掛け合わせたものとすると、帰雲城の埋没金の期待値はかなり低いように思われます。(この項終わり)


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 向牧戸城跡=岐阜県高山市荘川町で

(09:00)

2022年11月01日

テレビ愛知の特集番組では、山城跡の南側の高台で発掘を行い、これまでに木片や馬の骨、金属片などが出土しています。

ただ、発掘場所が居館の近くなら、人骨や建材が大量に出てこなければおかしいので、どうも別の場所のようです。

土地を掘削するためには地権者の許可が必要ですし、予算の問題もありますので、なかなか希望通りの場所を掘るというわけにはいかないのでしょう。

ところで、帰雲城とともに5000億円とも2兆円とも言われる黄金が埋まっているというのは、果たして真実なのか、あらためて検証してみたいと思います。

産金地が予期しない大地震で埋没したのだから、蓄えた砂金や金塊がそのまま残されているだろう、というのが埋没金伝説の根拠です。

金持ちの家の金庫には、きっと大金が保管されているだろうと推測するのと同じです。

ここで当時の内ヶ嶋氏が置かれた状況をみてみたいと思います。

本能寺の変から2年後の天正12(1584)年4月、天下の覇権をかけて、織田信雄・徳川家康の連合軍と豊臣秀吉軍が小牧、長久手で戦います。

越中(富山県)の佐々成政は徳川家康側について、秀吉軍を背後から攻めようとしますが、秀吉側の前田利家が立ちはだかり、佐々を応援するために同盟関係にある内ヶ嶋氏理が越中に出兵します。

小牧・長久手の戦いは結局、秀吉と信雄による和議という形で終結しますが、佐々と氏理は敗戦の憂き目に遭います(この項続く)


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 白川村の史跡に指定されている荻町城跡=岐阜県白川村荻町で

(08:00)

2022年10月31日

帰雲城跡と見られる山城跡を訪ねました。

国道156号の近くなのですが、東側(国道側)はかなりの急斜面で、直接登るのは難しいです。

山城跡のすぐ南にauの無線局とステンレスパネルタンクがあり、そこからさらに南の砂利プラント工場近くまで、車両用の山道が造られているので、これを逆にたどれば比較的容易に辿り着きます。

下りる際に気付いたのですが、国道156号沿いに小さな墓地があり、その裏から登山道のような緩やかな道がつながっています。

内ヶ嶋氏の支城である荻町城跡(白川村荻町)や向牧戸城跡(高山市荘川町)ほどではありませんが、以前に訪れた愛知県瀬戸市の一色山城跡と比べるとずっと大きく、明らかに山城跡であることが分かります。

あちこちに人工的な石積みが残り、曲輪らしきものも確認できます。

南北に延びる稜線上に広がり、その長さは50m以上あるようです。

ぜひ山城の専門家に現地を訪れてもらい、詳細な図面を作成してもらいたいところです。

せっかくなので、持参した金属探知機で1時間ほど探索しましたが、見つかったのは針金を巻いたようなものと、散弾銃の薬莢だけ。

山の中で静かですが、幾度が近くでキジが大きな音を立てて飛び立ち、その度に驚かされました。

史跡あるいは観光資源として整備し、コストに見合う効果を得られるかどうかは分かりませんが、このままにしておくのは勿体ないなぁ、というのが正直な感想です。(この項続く)


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 帰雲城跡と思われる山城跡=岐阜県白川村保木脇で

(08:00)

2022年10月29日

白川郷埋没帰雲城調査会の会員が、帰雲川原と呼ばれた地区の山の上で遺構のようなものを見つけ、中世・近世の城郭研究を専門とする中井滋・滋賀県立大名誉教授が、竪堀や掘切の存在を確認し、山城跡であるとのお墨付きを与えたのです。

標高622mの地点で、地震による山津波の被害を免れたようです。

付近で帰雲城以外に山城を建てたなどという記録はありませんから、帰雲城跡とみてまず間違いないでしょう。

現地は帰雲城址の石碑から、国道156号を挟んで南へ100mほどの位置です。

ご存知の方もいると思われますが(私は今回勉強して知りました)、当時の城は、戦時に立てこもる詰城(つめじろ)と普段生活する居館(きょかん)のセット、二元構造となっています。

テレビ愛知の特集番組は、詰城跡の発見を伝えた後、近くにあるはずの居館探しに焦点を移します。

黄金が埋まっているとすれば、詰城ではなく居館のそばになりますから、当然のことかもしれませんが、なんとも勿体ない話です。

もし記者会見を開いて、「帰雲城跡とみられる山城跡を発見」と発表すれば、それなりのニュースになっていたのではないでしょうか。

白川村教育委員会の担当者の方にお聞きしたところ、岐阜県に昨年度、埋蔵文化財包蔵地(遺跡)の申請をしたそうです。

ただし、「本格的な調査をしなければ、帰雲城跡とは断定できない。調査の具体的な予定は今のところない」とのことでした。(この項続く)


山城跡
 帰雲城跡と見られる山城跡が見つかった場所(Google Map)


(09:00)

2022年10月28日

岐阜県白川村保木脇の国道156沿いには、帰雲城埋没地という看板を掲げ、帰雲城址と記された石碑や観音像、帰り雲神社の祠が整備された一角があります。

帰雲城はこの場所にあったのかと誤解しそうですが、採石業を営む会社の社長が、帰雲城の武将が夢枕に立ったことから、地元の有志の協力を得て比定地に建立したものです。

帰雲城はどこにあったのか、白川村を南北に貫く庄川の右岸なのか左岸なのか。

それは長年にわたる謎でした。

郷土史研究家らでつくる白川郷埋没帰雲城調査会は平成30(2018)年、帰雲城は庄川左岸の帰雲川原という地区にあったと特定し、テレビ愛知の特集番組もそれに従います。

根拠としたのは、飛騨の役人が18世紀半ばに書いた地誌「飛騨国中案内」の記述で、そこには「氏理の居城は」「帰雲川原」と記されているとしています。

その内容を訳してみます。(地震の直後の情景を描いたものです)

「氏理の居城は言うに及ばず、その近辺を残らず打ちつぶし、大山は崩れ落ちて白川の大河はせき止められて、城下より川上は海のよう。川下の村々は残らず押し破られ、村人は取るものも取りあえず散々に山に逃げ登った。前代未聞のことである。神罰天罰はただちに下り、逃れるのは難しい。かつては帰雲、地震の後は帰山となり、今に至って、その場所を帰雲川原というようになった」

氏理の居城=帰雲川原と解釈できないこともないですが、微妙です。

しかしながら、場所の特定が大発見につながります。(この項続く)


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 帰雲城址と記された石碑=岐阜県白河村保木脇で

(08:00)