武田信玄の埋蔵金

2022年10月24日

これまでの内容をまとめてみます。

武田信玄ゆかりの埋蔵金が埋まっているとされるのは、鶏冠山麓の花魁淵の近く、笹子峠の地蔵小坂、身延山麓の3カ所となります。

花魁淵は、グーグルマップでも表示されますが、本当の花魁淵は柳沢川を上流へ1kmほど上った藤尾橋の近くで、林業家の中川金治が伝説にふさわしい場所として今の場所に移したとか。

心霊スポットとしても有名なようで、ネットに多くの写真が上がっています。

笹子峠は、まだ見つかっていない地蔵小坂の場所がカギとなりそう。

身延山麓はかなりの広範囲で、富士山麓の青木ヶ原樹海もこの中に含まれるようです。

ところで、山梨県内では半世紀ほど前、埋蔵金が実際に見つかり、大きなニュースとなりました。

昭和46(1971)年、山梨県甲州市勝沼町の観光ブドウ園で、園主が掘り起こし作業を行っていたところ、小判型の蛭藻(ひるも)金2枚と碁石(ごいし)金18個、中国からの渡来銭約6000枚が見つかったのです。

初期の甲州金とみられ、近くに勝沼信友(武田信虎の弟、信玄の叔父に当たる)の屋敷跡があることから、信友が埋めたものではないかと見られています。

山梨県立博物館は平成23(2011)年にこれを約1億円で買い取り、同24年には現地の発掘調査を行っています。(新たに見つかったのは渡来銭1枚のみ)

武田氏に関係する埋蔵金が埋まっている場所は、3カ所だけにとどまらないようです。(この項終わり)


福寺遺跡
 見つかった蛭藻金と碁石金(福寺遺跡報告書から)


(09:00)

2022年10月22日

穴山梅雪の埋蔵金の続きです。(この話は少々長いです)

大正2(1913)年、横浜の花咲橋に三影丹波という優れた霊術師がいると聞いた諸澄吉朗は、丹波のもとを訪ね、埋蔵場所を示した紙片の解読を依頼します。

丹波は二日後に亡くなりますが、妹の留子が解読結果と霊視内容を吉朗に伝えます。

それによると、紙片に書かれていたのは「隠し湯の湧きて流る窟穴を、のぼりて指せや地蔵小坂、朝日夕日月に照る 岩打て岩うて地蔵もうて、竹に千歳の色添えし、梅が雪見の酒なりし、千代八千代に栄えます、黄金の口ぞ汝に開かむ」という文章で、丹波は妹に「場所は身延山麓。埋蔵量は今日の価格で1億数千万円はあろう」などと具体的に語ったということでした。

二人は夫婦になり、隠し湯を下部温泉(山梨県身延町)と解釈して、探索を続けます。

大正5(1915)年、吉朗はついに一枚岩で蓋がされた洞窟を見つけ(場所は富士山麓か龍ヶ岳の麓あたり)、そのことを妊娠中の留子に伝えて喜ばせると、岩を打ち砕く道具と5日分の食料を持って、再び山に入ります。

しかし、吉朗はそのまま戻らず、留子も息子を出産後に探し回りましたが、杳として行方は知れません。

その後、静岡県富士宮市の佐藤一という人物が、富士山麓の村で行商を行うかたわら、長年にわたってこの埋蔵金を探しましたが、発見できず。

また昭和46年には、和歌山県の西谷樟雄という人物が、富士宮市麓に小坂神社と地蔵峠があることを知り、付近で洞窟の入口とみられる大岩を見つけて発掘を試みましたが、ただの岩に過ぎなかったそうです。(この項続く)


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 下部温泉駅=山梨県身延町で




(09:00)

2022年10月21日

最後は穴山梅雪の埋蔵金です。

といっても、もともとは信玄の軍用金で、信玄の命で元亀4(1573)年に柳沢峠(山梨県甲州市)に埋めたものを、織田・徳川軍に寝返った後に居城の下山城(同県身延町)に移し、さらに某所に埋めたとされるものです。

天正10(1582)年の武田氏の滅亡後、梅雪は徳川家康に従って安土を訪れ、織田信長から巨摩郡を任されますが、直後に本能寺の変が起き、慌てて甲州に戻ろうとした途中、宇治田原(京都府宇治田原町)で一揆に巻き込まれて亡くなります。

自業自得ともいえる最期ですが、話はここで終わりません。

一揆の軍勢に加わっていた諸澄(もろずみ)九右衛門政景が、梅雪の所持品から、埋蔵金の在りかを記した「武功録」を見つけ、仲間二人とともに埋蔵金の一部の発掘に成功します。(埋蔵場所は3カ所で、持ち出したのはそのうちの1カ所の3分の1ほど)

三人は現在の沼津市に腰を落ち着け、豪奢な生活を送りますが、これを嗅ぎ付けたほかの仲間に殺害され、埋蔵金も奪われてしまいます。

それから時は流れて徳川吉宗の時代。

沼津市の諸澄家の家がもらい火で焼け、主人が焼け跡をかき回していたところ、床下の穴から数千両の金塊と帳面の入った壺が見つかります。

九右衛門が埋めたもので、帳面には「宝を得んとするものは家宝の千馬の槍に聞くべし」と記されていましたが、千馬の槍は主人の祖父が売却済みで、どこに行ったのかわかりません。

時はさらに流れて明治42(1909)年。

先祖代々言い伝えられた「千馬の槍」を探していた諸澄吉朗は、新聞記事をきっかけに小田原市の廃屋でそれを手に入れ、柄の空洞に埋蔵量と埋蔵場所を示した紙片を見つけます。

しかし、長年の歳月を経たせいで文字の一部が欠落し、判読できません。(この項続く)


穴山梅
 穴山梅雪画像(東京大学史料編纂所所蔵模写)

(08:00)

2022年10月20日

続いて武田信玄の後を継いだ武田勝頼の埋蔵金です。

織田・徳川連合軍の猛攻と、重臣の穴山梅雪らの寝返りで窮地に追い込まれた勝頼は、未完成の新府城(山梨県韮崎市)に火を放つと、主従40人で天目山(甲州市大和町)へと逃れて自害します。

自害の直前、勝頼は「敵に渡すのは忍びない」とばかり、家臣の小宮山又七郎に、信玄から受け継いだ莫大な金の埋蔵を命じます。(新府城内を去る前に、家臣の長坂釣閑に命じて、城内の屋敷に埋めさせたという説もあります。後に甲斐の領主となった浅野長政が掘りましたが、見つかっていません)

又七郎はそれを2頭の馬に積むと、山中を進み、甲州市と大月市の境にある笹子峠の「地蔵小坂」というところに埋めたということです。

この埋蔵話は、又七郎の子孫とされる呉服問屋井川屋又兵衛が、「御守宝一件」と表書きした古記録を見つけて明らかにります。

そして天保12(1841)年、楢林杢右衛門ほか27人が発掘を行い、朽ち果てた木箱入りの5貫匁(約19㎏)の金塊を発見します。

ただし、古記録に記された埋蔵量(金1匁5円の当時で1億円?)と比べると、微々たる量でしかなく、まだほとんどが手付かずのままと思われます。

昭和12(1937)年から15年にかけて、静岡市泉町の影山という人物が古記録を入手して、笹子峠一帯を調査しましたが、「地蔵小坂」の場所も特定できません。

また、それとは別に昭和14年に、愛知県岡崎市の磯野という人物が「地蔵小坂」らしい場所を見つけ、発掘を試みましたが、やはり発見できず、そのままとなっているそうです。(この項続く)


武田
 武田勝頼画像(東京大学史料編纂所所蔵模写)

(08:00)

2022年10月19日

最初に取り上げるのは、武信玄が黒川金山(山梨県甲州市塩山)の坑道に隠したとされる埋蔵金です。

近くを流れる柳沢川に「花魁(おいらん)淵」と呼ばれる滝がありますが、これは信玄時代に、この上に釣屋台を設けて坑夫相手の遊女55人を集め、宴会のさなかに藤蔓を切り落として殺害したことから、その名が付けられたといわれています。

遊女たちが殺されたのは、坑道に隠した軍用金の秘密が漏れるのを防ぐためで、大勢の坑夫たちも同様の理由で殺害されたいうことです。(にわかには信じがたい話ですが)

ここまでなら、単なる伝説の域を出ないのですか、付近には埋蔵金の実在をうかがわせる幾つもの逸話が残り、埋蔵金マニアの興味を掻き立てます。(以下、箇条書きにします)

・幕末のころ、平右衛門という男が妻と10歳くらいの男児を連れて甲府から移住し、ある時、住んでいた小屋が焼け、平右衛門と妻が切り殺されているのが見つかった。遊びに行っていて助かった男児の話では、移住したのは軍用金探しが目的で、数日前に一部が見つかり、母親から金の延べ棒を見せられたという。

・明治の終わりごろ、花魁淵の近くで転落した男性(高橋修二郎)の遺体が見つかり、残された荷物の中から金の延べ棒10本と発見場所を示すノートが見つかった。ノートは水に濡れ、「高橋〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇に 腕の形〇〇〇〇〇〇〇〇〇る 大木〇〇〇右3本〇〇〇〇〇〇〇〇 山〇〇〇〇〇あり穴は大きな岩の 左からみ〇〇〇〇〇〇〇る 木で〇〇〇〇〇〇本 棒は大〇〇〇〇〇〇十枚 のべ板〇〇〇〇二つの穴 にもま〇〇〇〇〇ある 右の〇〇〇口は川につ いて下って三つ目の〇 のほらあなから入る」(〇は判読不明)と記されていた。

・大正の初め、東京の若者(金沢猪作)が登山で道に迷い、たまたまたどり着いた縦穴で、行者姿の男性(弓削一司郎)が砂金入りの壺を取り出そうとしているのを目撃した。弓削は直後に熊に襲われ、金沢が手当てをして東京まで送ると、砂金は信玄の埋蔵金であることを打ち明け、姿を消した。金沢は昭和3年、横浜根岸の競馬場で若い女性を連れ、見違えるほど立派な格好をした弓削を見かけたという。(この項続く)



武田信玄
 武田信玄画像(東京大学史料編纂所所蔵模写)

(08:00)