日本の三大埋蔵金伝説
2022年10月08日
後は結城晴朝の埋蔵金です。
三大埋蔵金の一つといわれてもピンとこないかもしれませんが、金の延べ棒が5万本、砂金の入った樽が100余個という埋蔵額の大きさと、近年まで数多くの人たちによって各地で発掘作業が試みられたことが大きな特徴です。
結城家は、平安時代末期から戦国時代末期まで北総一帯を治めてきた名門士族で、源頼朝が奥州藤原氏を討つ際には先陣を務め、藤原氏の黄金のほとんどを恩賞として受けとったと伝えられます。
藤原晴朝は17代の当主で、世継ぎがいなかったため、豊臣秀吉から自身の養子としていた徳川家康の次男の秀康を養子として与えられ、さらに天下を取った家康から越前国福井への移封を命じられます。
家康に財宝を奪われまいと、晴朝が重臣の膳所主水(ぜぜ・もんど)に命じてどこかに埋蔵させたというのが、この伝説のあらましです。
これまで結城城跡(茨城県結城市)や、晴朝が隠棲していた会之田城跡(栃木県下野市)などで、江戸幕府や旧藩主の子孫で貴族議員の水野直子爵らが数次にわたって発掘を試みていますが、発見に至っていません。
山口県の中元虎斎氏は平成元(1989)年まで、1億円以上を使って断続的に探索しました。
ところで、結城家と関係のある金光寺(結城市)の山門には3種の和歌「きの苧(からむし) かふゆうもんに さくはなも みどりのこす 万代のたね」「こふやうに ふれてからまる うつ若葉 つゆのなごりは すへの世までも」「あやめさく 水にうつろう かきつばた いろはかはらぬ 花のかんばし」が刻まれ、この暗号を解けば、埋蔵金の在りかが分かるといわれています。
また「安政6(1859)年に会之田城跡近くの古井戸で百姓孫右衛門が金の延べ棒9000本を掘り出し、領主に届けたところ、五千石の武士に取り立てられた」という話を伝える瓦版が見つかり、これを裏付ける公文書はないものの、実際の出来事ではないかという指摘もあります。
(この項終わり。畠山清行氏の「日本の埋蔵金」と八重野充弘氏の「日本の埋蔵金100話」の記述をもとに、ほかの埋蔵金の関連本やネットの情報も参考にしてまとめました)
結城晴朝画像(東京史料編纂所所蔵模写)
三大埋蔵金の一つといわれてもピンとこないかもしれませんが、金の延べ棒が5万本、砂金の入った樽が100余個という埋蔵額の大きさと、近年まで数多くの人たちによって各地で発掘作業が試みられたことが大きな特徴です。
結城家は、平安時代末期から戦国時代末期まで北総一帯を治めてきた名門士族で、源頼朝が奥州藤原氏を討つ際には先陣を務め、藤原氏の黄金のほとんどを恩賞として受けとったと伝えられます。
藤原晴朝は17代の当主で、世継ぎがいなかったため、豊臣秀吉から自身の養子としていた徳川家康の次男の秀康を養子として与えられ、さらに天下を取った家康から越前国福井への移封を命じられます。
家康に財宝を奪われまいと、晴朝が重臣の膳所主水(ぜぜ・もんど)に命じてどこかに埋蔵させたというのが、この伝説のあらましです。
これまで結城城跡(茨城県結城市)や、晴朝が隠棲していた会之田城跡(栃木県下野市)などで、江戸幕府や旧藩主の子孫で貴族議員の水野直子爵らが数次にわたって発掘を試みていますが、発見に至っていません。
山口県の中元虎斎氏は平成元(1989)年まで、1億円以上を使って断続的に探索しました。
ところで、結城家と関係のある金光寺(結城市)の山門には3種の和歌「きの苧(からむし) かふゆうもんに さくはなも みどりのこす 万代のたね」「こふやうに ふれてからまる うつ若葉 つゆのなごりは すへの世までも」「あやめさく 水にうつろう かきつばた いろはかはらぬ 花のかんばし」が刻まれ、この暗号を解けば、埋蔵金の在りかが分かるといわれています。
また「安政6(1859)年に会之田城跡近くの古井戸で百姓孫右衛門が金の延べ棒9000本を掘り出し、領主に届けたところ、五千石の武士に取り立てられた」という話を伝える瓦版が見つかり、これを裏付ける公文書はないものの、実際の出来事ではないかという指摘もあります。
(この項終わり。畠山清行氏の「日本の埋蔵金」と八重野充弘氏の「日本の埋蔵金100話」の記述をもとに、ほかの埋蔵金の関連本やネットの情報も参考にしてまとめました)
結城晴朝画像(東京史料編纂所所蔵模写)
(08:00)
2022年10月07日
続いては豊臣秀吉の埋蔵金です。
秀吉が亡くなる直前の慶長3(1598)年、6歳の息子の秀頼の将来を案じて、兵庫県猪名川町の多田銀銅山の坑道21カ所に埋めさせたというものです。
天生長大判4億5000万両と金塊3万貫(112.5t)で、地金だけでも時価にして45兆円を超える計算となり、埋蔵額は断トツのナンバーワンです。
埋蔵を実行したのは勘定奉行の幡野三郎光照らで、いずれも大阪冬の陣などで亡くなり、秘密を知る者はいなくなりましたが、戦後になって三重県伊賀市の亀井家と大阪の山本徳次郎氏の家から、文書や絵図が相次いで発見され、新聞で大きく報じられました。
見つかったのは、埋蔵の経緯を記した「幡野三郎光照遺書」、秀頼が15歳になったら必要に応じて掘り出せという秀吉の遺志を書き写した「清水心龍の巻」、埋蔵場所を詳しく案内する「和田次郎光盛秘書」、多田銀山の鳥観図などです。
この後、山本氏をはじめ多く人たちが私財を投じて発掘作業を行いましたが、見つかっていません。
中でも最も有名なのは、現地に移り住んで2012年に亡くなるまで、37年にわたって探索を続けた浜松市の鈴木盛司氏でしょう。
亀井家と山本家から見つかった文書は現在は行方不明で、ほかにも新たな文書が出てきたりして、どれが原本か写しなのか判断できない状況となっているようです。
また、文書を読んだ専門家が「書かれているのは『大阪城には4億5000万両があり、当面これ以上の金は必要ない。多田銀山の採掘を中断し、将来必要になったときのために鉱脈を書き残しておく』という内容で、黄金を埋めたというのは誤読である」と指摘したという情報もあります。(この項続く)
多田銀銅山(猪名川町のホームページから)
秀吉が亡くなる直前の慶長3(1598)年、6歳の息子の秀頼の将来を案じて、兵庫県猪名川町の多田銀銅山の坑道21カ所に埋めさせたというものです。
天生長大判4億5000万両と金塊3万貫(112.5t)で、地金だけでも時価にして45兆円を超える計算となり、埋蔵額は断トツのナンバーワンです。
埋蔵を実行したのは勘定奉行の幡野三郎光照らで、いずれも大阪冬の陣などで亡くなり、秘密を知る者はいなくなりましたが、戦後になって三重県伊賀市の亀井家と大阪の山本徳次郎氏の家から、文書や絵図が相次いで発見され、新聞で大きく報じられました。
見つかったのは、埋蔵の経緯を記した「幡野三郎光照遺書」、秀頼が15歳になったら必要に応じて掘り出せという秀吉の遺志を書き写した「清水心龍の巻」、埋蔵場所を詳しく案内する「和田次郎光盛秘書」、多田銀山の鳥観図などです。
この後、山本氏をはじめ多く人たちが私財を投じて発掘作業を行いましたが、見つかっていません。
中でも最も有名なのは、現地に移り住んで2012年に亡くなるまで、37年にわたって探索を続けた浜松市の鈴木盛司氏でしょう。
亀井家と山本家から見つかった文書は現在は行方不明で、ほかにも新たな文書が出てきたりして、どれが原本か写しなのか判断できない状況となっているようです。
また、文書を読んだ専門家が「書かれているのは『大阪城には4億5000万両があり、当面これ以上の金は必要ない。多田銀山の採掘を中断し、将来必要になったときのために鉱脈を書き残しておく』という内容で、黄金を埋めたというのは誤読である」と指摘したという情報もあります。(この項続く)
多田銀銅山(猪名川町のホームページから)
(08:00)
2022年10月05日
今後の埋蔵金探しのターゲットを絞るために、あらためて日本の三大埋蔵金伝説について情報をまとめてみたいと思います。
三大埋蔵金伝説とは、徳川幕府の御用金、豊臣秀吉の黄金、結城晴朝(はるとも)の埋蔵金です。
徳川埋蔵金はテレビ番組で何度も取り上げられ、最もメジャーな埋蔵金伝説といっていいでしょう。
幕末の大老・井伊直弼の発案で、海外への金の流出を避けるため、あるいは将来の戦費とするため、徳川幕府の御用金384万両を群馬県の赤城山に隠したというものです。
御用金の埋蔵に関わった義父の中島蔵人(くらんど)からこの話を聞いた水野智義氏が、赤城村津久田原(現・渋川市赤城町津久田)で明治16(1883)年に発掘を始め、以来、次男の義治氏、その弟の愛三郎氏、その次男の智之氏と、3代にわたって作業が続けられましたが、発見できませんでした。(智之氏は2011年に死去)
智義氏は、「源次郎の井戸」と呼ばれる古井戸から銅製の徳川家康像と銅皿、そこから北東3・2kmの位置にある双永寺の床下から謎文(「一は万物の始め、一将を覚えるときは七臣に達して天下太平なり」)と絵図が記された3枚の銅板を見つけ、徳川埋蔵金の在りかを示す手がかりとして注目を集めjました。
これまで数多くの埋蔵金マニアによって解読が試みられましたが、現在ではこうした「物証」は徳川埋蔵金とは関係ないという見方が大勢です。
また、TBSテレビの発掘チームが見つけた人工的な空洞も、太平洋戦争直前の昭和15(1940)年に、当時の近衛文麿内閣が在郷軍人を集めて行った大規模な発掘作業の名残であることが分かっています。
ただし、徳川埋蔵金については赤城山以外にも、武士団が荷物を運ぶのを目撃したという証言があり、400万両近くとはいわないまでも、数十万両の御用金がどこかに埋まっているのではないかと言われています。(この項続く)
徳川埋蔵金伝説の舞台となった赤城山
三大埋蔵金伝説とは、徳川幕府の御用金、豊臣秀吉の黄金、結城晴朝(はるとも)の埋蔵金です。
徳川埋蔵金はテレビ番組で何度も取り上げられ、最もメジャーな埋蔵金伝説といっていいでしょう。
幕末の大老・井伊直弼の発案で、海外への金の流出を避けるため、あるいは将来の戦費とするため、徳川幕府の御用金384万両を群馬県の赤城山に隠したというものです。
御用金の埋蔵に関わった義父の中島蔵人(くらんど)からこの話を聞いた水野智義氏が、赤城村津久田原(現・渋川市赤城町津久田)で明治16(1883)年に発掘を始め、以来、次男の義治氏、その弟の愛三郎氏、その次男の智之氏と、3代にわたって作業が続けられましたが、発見できませんでした。(智之氏は2011年に死去)
智義氏は、「源次郎の井戸」と呼ばれる古井戸から銅製の徳川家康像と銅皿、そこから北東3・2kmの位置にある双永寺の床下から謎文(「一は万物の始め、一将を覚えるときは七臣に達して天下太平なり」)と絵図が記された3枚の銅板を見つけ、徳川埋蔵金の在りかを示す手がかりとして注目を集めjました。
これまで数多くの埋蔵金マニアによって解読が試みられましたが、現在ではこうした「物証」は徳川埋蔵金とは関係ないという見方が大勢です。
また、TBSテレビの発掘チームが見つけた人工的な空洞も、太平洋戦争直前の昭和15(1940)年に、当時の近衛文麿内閣が在郷軍人を集めて行った大規模な発掘作業の名残であることが分かっています。
ただし、徳川埋蔵金については赤城山以外にも、武士団が荷物を運ぶのを目撃したという証言があり、400万両近くとはいわないまでも、数十万両の御用金がどこかに埋まっているのではないかと言われています。(この項続く)
徳川埋蔵金伝説の舞台となった赤城山
(12:00)