前野小平治の埋蔵金

2022年09月20日

いよいよ、前野小平治の埋蔵金を取り上げます。

埋蔵金に関する本には必ず登場するなど、中部地方の埋蔵金伝説の中では、たぶん最も有名ではないでしょうか。

前野小平治の埋蔵金は、前野家の興亡や子孫による発掘の試み、盗掘者と見られる人物の情報などが絡んで、ドラマ性と信憑性に満ちているのが大きな特徴です。

まずは伝説の概要をおさらいしてみましょう。

尾州内海の廻船問屋・前野小平治は商才と地の利を生かして大いに栄え、5代目小平治のころにピークを迎えた。

天保4(1833)年の大飢饉では各地から4万3千石のコメを集めて江戸に届け、幕府から称賛されるが、これが逆に尾張藩の反発を呼ぶ結果となった。

尾張藩は密貿易を理由に前野家を取り潰そうと考え、これを察した前野小平治は財産をひそかに埋めて隠した。

その後、前野家は事業の失敗もあって没落し、明治5(1872)年に跡目を継いだ8代目小平治は、埋蔵金による再興を夢見て発掘を試みるが、発見できず。

昭和33(1958)年には県道の拡張工事で穴倉が見つかり、宝庫ではないかと騒がれたか、こちらも空っぽだった。

地元には、資産家でもないのに商売を失敗しては何度も繰り返している男性や、名古屋の古銭商に10年以上にわたって小判を売りさばいている老婆の情報があり、埋蔵金をこっそり盗掘したのではないかとみられている。(畠山清行著「日本の埋蔵金」などから)
(この項続く)

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 尾州廻船で使用された千石船の模型=愛知県南知多町の旧内田佐平二家住宅で

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