前野小平治の埋蔵金

2022年09月25日

7代目以降も見てみましょう。

前々回に見たように、3歳で当主となった7代目は傀儡で、父親の小栗宗徳が実権を握ります。

東大路保義氏の記述によると、前野家は使用人の末まで6代目派と7代目派に分かれて対立反目し、紊乱(ぶんらん)の極めに陥ります。

7代目は父親の死後、半田に引き上げますが、その際には前野家の将来のことは眼中になく、「布切れまでも二つに裂いて財産を折半した」(6代目の妻が東大路氏に語った話)そうです。

7代目が埋蔵金の話を知っていれば、当然自分の権利を主張していたはずですが、そうしていません。

前野家で埋蔵金伝説が真剣に取り上げられるようになるのは、屋敷を切り売りしていた8代目が偶然、宝蔵の板壁から埋蔵金の明細と隠し場所の絵図を見つけてからです。

ここからは私の推理というか推測です。

5代目は尾張藩による取り潰しに備えて、確かに屋敷の敷地内に埋蔵金を隠し、宝蔵の板壁に明細と絵図を忍ばせましたが、その恐れが無くなった後は、埋蔵金を掘り出す一方、明細と絵図はそのままにしたのではないでしょうか。

前野家がまさか将来没落し、屋敷が切り売りされる過程で、明細と絵図が見つけ出されるとは思わなかったのでしょう。

埋蔵金がそれを埋めた5代目本人によって既に掘り起こされているのなら、屋敷の内外をいくら探しても見つかるはずはありません。


夢のない話になってしまいましたが、これが真実と思えてなりません。
(この項終わり。調査に協力していただいた内田恒助さんに御礼申し上げます)


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 現在の前野家の敷地=愛知県南知多町で

(08:00)

2022年09月24日

埋蔵金の在りかを考える上で、歴代の前野小平治の人物像に焦点を当ててみたいと思います。

もちろん注目は、前野家の中興の祖で、埋蔵金を埋めた本人である5代目(佐蔵)です。

前々回に見た通り、佐蔵は4代目の子供ではなく、3代目が亡くなる年にもうけた末子です。

59歳で隠居した4代目は、人物を見込んで佐蔵が跡目を継ぐことを嘱望しますが、佐蔵は4代目の長男、小八郎(後の6代目)に遠慮して、これを頑として受けません。

親族会議の結果、「跡目は一応、小八郎に継がせるが、佐蔵がそれを後見する」ということで決着します。

佐蔵は生涯、「佐蔵」で通し、「5代目」とも「前野小平治」とも名乗りません。

5代目小平治と呼ばれるのは死後、祀られてからです。

5代目の人物像について、東大路保義氏は「天性の異材で沈着豪放、毅然として何事にも屈せず、かつ任侠の念の強い人となりであった」と絶賛しています。

埋蔵金伝説では、5代目が尾張藩による取り潰しに備えて金銀財宝を埋め、取り潰しの恐れが無くなった後も、そのまま掘り出さなかったとしていますが、そんなことが果たしてあり得るでしょうか。

5代目は、6代目を慮って襲名を断ったほど任侠心に厚い人物ですから、間違いなく6代目に埋蔵金の場所を伝えたはずです。

商才に欠けていたとされる6代目は、家業を番頭手代に任せ、前回見た通り、桁違いの喜捨と豪遊を繰り返しますが、これが埋蔵金の資金なしに行われたとは到底思えません。(この項続く)


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 埋蔵金は高宮神社の境内に埋められたという説も=愛知県南知多町で

(08:00)

2022年09月23日

前回、5代目前野小平治が埋蔵金を埋めるまでをたどってみましたが、今回はその後です。

前野家小平治が、必ずしもその子供によって襲名されていない点にもご注目ください。

弘化3(1846)年
5代目が死去。全国的な凶作に見舞われ、6代目(4代目の子、1825~69年)は本邸の普請や西屋敷の新築で、村内外の人たちに働き口を作る
茶の湯や小鼓、人形芝居などの芸事に凝って、普及に務める。 快速船を仕立てて伊勢古市の油屋(遊郭)に通って豪遊し、梅の間を再建する 高宮(たかのみや)神社に百数十段に及ぶ石段参道を寄進

弘化4(1847)年
7代目(6代目の甥の子、1845~77年)が3歳で名目上の後継者となる
半田村小栗家の養子となっていた父親の小栗宗徳は、病気静養を理由に6代目を軟禁すると、7代目の後見人として実権を振るうが、事業はことごとく失敗、持ち船も次々と難破して、家運は衰退の一途たどる

明治元(1868)年
小栗宗徳が死去。7代目は隠居を決め、前野家の財産を折半すると妻子とともに半田に引き上げる

明治5(1872)年
8代目(6代目の子、1855~1930年)が22歳で当主となる

明治23(1890)年
8代目が旧藩債返還の訴訟を正式に提訴(前野家から尾張藩への貸し金は調達金だけで26万余両、30億円相当に上るという)。名古屋区長が仲介に入り、示談解決という話になったが、泣き寝入りに
宝蔵の板壁から埋蔵金の明細書とその場所を示した絵図を発見、屋敷内を探し、掘りまくったが発見できず
(この項続く)


石段
 前野小平治が寄進した高野宮神社の石段=愛知県南知多町で

(09:00)

2022年09月22日

前々回で、前野小平治の埋蔵金について少し長めの概要を掲載しましたが、事実あるいは事実と見られることを、さらに詳しく時系列に並べてみたいと思います。

前野家の代々の当主については、9代目小平治の前野いねさんの夫である東大路保義氏が記録を残しており、それも参考にします。

元禄16(1703)年
前野小次郎が分家して小平治(初代)を名乗り、廻船業を営む

明和4(1767)年
2代目(初代の子)が綿や米穀の取引にも手を染めて財を成し、尾張藩から金子の調達(借金)を命じられる

安永5(1776)年
3代目(2代目の甥)が尾張藩の御用達となる

享和4(1804)年
4代目(3代目の甥)が尾張藩の御用達となり、ついには独礼御目見に昇格する
家業を全国物産の交流売買、運輸、金融、土地不動産の4部門に分け、さらに繫栄する

文政7(1824)年
5代目(3代目の子、1793~1846年)が泉蔵院に金毘羅堂拝殿を寄進
商圏を九州から仙台までに拡大し、その名を全国に轟かす

天保5(1834)年
天保の飢饉で、5代目が江戸町奉行所の要請を受け、4万3千石の米を各地から江戸へ運ぶ

天保14(1834)年
尾張藩が密貿易を理由に前野家を取り潰して財産を没収しようと考え、徹底的な「間調べ」を行う。5代目は廃業を覚悟すると、できる限りの金銀貨幣を集め、保字小判数千枚、大吉小判数千枚、真文小判数千枚を埋蔵する。その後、尾張藩は方針を改め、前野家は危うく難を逃れる
(この項続く)


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 金毘羅堂拝殿=愛知県南知多町の泉蔵院で    

(08:00)

2022年09月21日

埋蔵金伝説の舞台である愛知県南知多町を車で訪ねました。

自動車専用道の知多半島道路と南知多道路を使えば、名古屋から一時間ほどです。

前野小平治の子孫の方は現在、名古屋に住んでおり、南知多町内に家と敷地はありますが、切り売りを重ねて残ったもので、往時の面影はありません。

その代わりといっては失礼ですが、前野小平治と同じ廻船船主として栄えた内田佐七の明治初期の邸宅(重要文化財)が土日に一般公開され、内海の豪商の暮らしぶりを偲ぶことができます。

敷地内にある米蔵は、実は前野家から移設されたものです。

初代内田佐七は5代目前野小平治から50両を借りて廻船業を始め、明治、大正時代には銀行や乗り合いバスにも事業を拡大して成功を納めました。

前野小平治が6代目以降に徐々に没落の道を辿ったのとは対照的です。

すぐ近くに南知多町長を16年にわたって務めた内田恒助(つねすけ)さんが住んでおり、前野小平治の埋蔵金について貴重なお話を聞くことができました。

内田さんによると、前野家による埋蔵金の発掘作業が、子供時代から記憶しているだけでも4、5回あったそうです。

最後は内田さんが区長だった昭和42年で、前野家の再興を願う5代目内田佐七が陣頭指揮を執り、相当大掛がりにやったものの見つからず、前野家はこれを区切りに埋蔵金探しを断念したとか。

「誰かに盗掘されたのかどうかはわからないが、埋蔵金はもうない」というのが内田さんのお考えのようです。(この項続く)


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 前野小平が使っていた米蔵=愛知県南知多町の旧内田家住宅で



(08:00)