尾張徳川家の駿府御譲金
2022年09月08日
「松濤棹筆」の関係部分を抜粋して以下にこ紹介します。
何が起きたのか、10月初め、寺社奉行や作事奉行が人夫40人とともにやってきて、大日如来像を脇にどけると、台座の大石を取り除き、地面を掘り始めた。
1丈2尺(3.6m)ほど掘ったが、経石(経文を書いた小石)しか見つからない。
その後も掘削は続き、穴の大きさは9尺(2.7m)四方となり、奉行所からは、お堂を取り壊して5間(9m)四方を掘るという命令が出された。
そこで私(住職)は寺中の記録をすべて調べ、「かつて経石を埋めたという記述はあるが、金を埋めたという記述はない」と文書に記し、奉行所に提出した。
藩の上層部に伝わり、これ以上掘ってはならないという決定が下されると、修復工事がなされ、12月中旬に元の姿に戻った。
奥村はこの随筆の中で、同年の黒船来航の騒ぎで軍用金話が出たのだろうと指摘し、駿府御譲金の30万両については200年前にとっくに蕩尽されていると書いています。
阿部教授は前述の著書で、大日堂の埋蔵金伝説が生まれた理由を以下のように推測しています。
これが本当のところかもしれません。
徳川光友は自らの発願で建立した大日尊の体内に「家門永昌・国土安全」を祈願して、自筆の書や経典等を納めた。
興正寺はこれを「御宝物」と称して、大日尊仮堂の修理を奉行所に要望していた。
この「御宝物」が黄金埋蔵伝説にすり替わり、広く流布していたのであろう。(この項終わり)
松濤棹筆(名古屋叢書三編第九巻から)
何が起きたのか、10月初め、寺社奉行や作事奉行が人夫40人とともにやってきて、大日如来像を脇にどけると、台座の大石を取り除き、地面を掘り始めた。
1丈2尺(3.6m)ほど掘ったが、経石(経文を書いた小石)しか見つからない。
その後も掘削は続き、穴の大きさは9尺(2.7m)四方となり、奉行所からは、お堂を取り壊して5間(9m)四方を掘るという命令が出された。
そこで私(住職)は寺中の記録をすべて調べ、「かつて経石を埋めたという記述はあるが、金を埋めたという記述はない」と文書に記し、奉行所に提出した。
藩の上層部に伝わり、これ以上掘ってはならないという決定が下されると、修復工事がなされ、12月中旬に元の姿に戻った。
奥村はこの随筆の中で、同年の黒船来航の騒ぎで軍用金話が出たのだろうと指摘し、駿府御譲金の30万両については200年前にとっくに蕩尽されていると書いています。
阿部教授は前述の著書で、大日堂の埋蔵金伝説が生まれた理由を以下のように推測しています。
これが本当のところかもしれません。
徳川光友は自らの発願で建立した大日尊の体内に「家門永昌・国土安全」を祈願して、自筆の書や経典等を納めた。
興正寺はこれを「御宝物」と称して、大日尊仮堂の修理を奉行所に要望していた。
この「御宝物」が黄金埋蔵伝説にすり替わり、広く流布していたのであろう。(この項終わり)
松濤棹筆(名古屋叢書三編第九巻から)
(08:00)
2022年09月07日
尾張徳川家の駿府御譲金のありかを探るに当たり、ここで埋蔵金伝説の内容を確認してみたいと思います。
伝説では、大阪城にあった豊臣家の金銀を、徳川御三家に30万両ずつ分配したとありますが、ネットで調べると、徳川家康が亡くなった後の遺産分けで、総額200万両に上る金のうち、尾張、紀伊両家に30万両ずつ、水戸家に10万両が分与され、残りを江戸政府が引き継いだという情報があります。
水戸家の金額は異なりますが、尾張家に30万両が引き渡されたというのは、事実としてあったことでしょう。
ただ、御三家のうち、尾張家の30万両だけ行方が分かっていない、というのは確認できません。
続いて、嘉永6(1853)年に大日堂の地下が掘り起こされた話です。
奥村得義の「金城温古録」に記載されているということですが、これが10編64巻に上り、簡単に見つかりません。
これでデッドエンドかと諦めかけたのですが、たまたま、中京大の阿部英樹教授の著書「江戸時代の八事山興正寺」をめくっていて、同じ奥村得義が書いた随筆「松濤棹筆(しょうとうとうひつ)」に、大日堂の発掘の話が詳しく記されていることがわかりました。
発掘話というより、発掘騒ぎといった方が適当かもしれません。
奥村が嘉永7年4月に興正寺を訪ね、懇意にしている住職から、前年の冬に起きた騒ぎを聞き出すというスタイルをとっているのですが、これがかなり具体的で、びっくりする内容です。
そして残念ながら、この埋蔵金に脈がないことも判明してしまいました。(この項続く)
興正寺の大本尊である大日如来像
伝説では、大阪城にあった豊臣家の金銀を、徳川御三家に30万両ずつ分配したとありますが、ネットで調べると、徳川家康が亡くなった後の遺産分けで、総額200万両に上る金のうち、尾張、紀伊両家に30万両ずつ、水戸家に10万両が分与され、残りを江戸政府が引き継いだという情報があります。
水戸家の金額は異なりますが、尾張家に30万両が引き渡されたというのは、事実としてあったことでしょう。
ただ、御三家のうち、尾張家の30万両だけ行方が分かっていない、というのは確認できません。
続いて、嘉永6(1853)年に大日堂の地下が掘り起こされた話です。
奥村得義の「金城温古録」に記載されているということですが、これが10編64巻に上り、簡単に見つかりません。
これでデッドエンドかと諦めかけたのですが、たまたま、中京大の阿部英樹教授の著書「江戸時代の八事山興正寺」をめくっていて、同じ奥村得義が書いた随筆「松濤棹筆(しょうとうとうひつ)」に、大日堂の発掘の話が詳しく記されていることがわかりました。
発掘話というより、発掘騒ぎといった方が適当かもしれません。
奥村が嘉永7年4月に興正寺を訪ね、懇意にしている住職から、前年の冬に起きた騒ぎを聞き出すというスタイルをとっているのですが、これがかなり具体的で、びっくりする内容です。
そして残念ながら、この埋蔵金に脈がないことも判明してしまいました。(この項続く)
興正寺の大本尊である大日如来像
(08:00)
2022年09月06日
大日堂の開堂日である5日に興正寺を訪ねました。
この日は寺の縁日ということもあって、境内のあちこちに食品や雑貨を売る屋台が繰り出され、大勢の参拝客でにぎわっていました。
目指す大日堂は境内の東北に位置し、西山本堂の正面右のエスカレーターを上り、墓地を抜けた先の小山の上にあります。
鎮座する大日如来像は元禄10(1697)年、尾張徳川家二代藩主光友が母の供養のために鋳造させたもの。
高さ3.6mで、全体的に丸みを帯び、穏やかな表情で、温和な雰囲気です。
江戸時代前期の仏教美術を代表する大仏として、一見の価値があると思われます。
果たしてこの下に駿府御譲金の30万両が埋まっているのか、すぐにも掘って確かめたいところですが、場所が場所だけに簡単にはいきそうにありません。
ところで大日堂を巡っては、30万両の埋蔵金のほかにも幾つかの伝説が残されています。
名古屋城と大日堂が地下道で結ばれている(直線距離で約6kmあります)という話や、大日如来像が銅製なのは、いざというときに大砲にするためだという話などです。
もともと興正寺は「藩主の寺」で、江戸時代は葬祭檀家も本山も持たず(高野山を本山としたのは明治6年から)、大日堂のある東山では女人禁制が敷かれていました。
庶民に縁遠い存在だったために、謎や伝説が生まれたのかもしれません。
地下道や大砲は荒唐無稽といっていいお話ですが、果たして埋蔵金はどうでしょうか。(この項続く)
興正寺の大日堂。かつてはここから熱田の森や名古屋の港が見えたという
この日は寺の縁日ということもあって、境内のあちこちに食品や雑貨を売る屋台が繰り出され、大勢の参拝客でにぎわっていました。
目指す大日堂は境内の東北に位置し、西山本堂の正面右のエスカレーターを上り、墓地を抜けた先の小山の上にあります。
鎮座する大日如来像は元禄10(1697)年、尾張徳川家二代藩主光友が母の供養のために鋳造させたもの。
高さ3.6mで、全体的に丸みを帯び、穏やかな表情で、温和な雰囲気です。
江戸時代前期の仏教美術を代表する大仏として、一見の価値があると思われます。
果たしてこの下に駿府御譲金の30万両が埋まっているのか、すぐにも掘って確かめたいところですが、場所が場所だけに簡単にはいきそうにありません。
ところで大日堂を巡っては、30万両の埋蔵金のほかにも幾つかの伝説が残されています。
名古屋城と大日堂が地下道で結ばれている(直線距離で約6kmあります)という話や、大日如来像が銅製なのは、いざというときに大砲にするためだという話などです。
もともと興正寺は「藩主の寺」で、江戸時代は葬祭檀家も本山も持たず(高野山を本山としたのは明治6年から)、大日堂のある東山では女人禁制が敷かれていました。
庶民に縁遠い存在だったために、謎や伝説が生まれたのかもしれません。
地下道や大砲は荒唐無稽といっていいお話ですが、果たして埋蔵金はどうでしょうか。(この項続く)
興正寺の大日堂。かつてはここから熱田の森や名古屋の港が見えたという
(08:00)
2022年09月05日
今回から、尾張徳川家の駿府御譲金についてリポートします。
埋蔵金伝説の内容を振り返ります。
元和元(1615)年の大阪夏の陣に勝利した徳川家康は、大阪城にあった豊臣家の金銀を手に入れ、「駿府御譲金」として、徳川御三家にそれぞれ30万両(時価150億円)ずつ分配したが、このうち尾張徳川家に分配された30万両の行方がわかっていない。
尾張徳川家では、有事の際にしか使ってはならないものとして、名古屋城の小天守の地下蔵に収めたが、その後ひそかに尾張徳川家の祈願寺である興正寺(こうしょうじ)の大日堂の地下に移されたらしい。
江戸時代末期の尾張藩士、奥村得義(のりよし)がまとめた名古屋城の記録「金城温古録」には、嘉永6(1853)年、尾張藩が大日堂の地下を掘り返し、30万両の発掘を試みた(実はこのときに30万両を名古屋城から移した?)という記述がある。(八重野充弘監修「日本全国『隠し財宝』完全マップ」から)
興正寺(名古屋市昭和区、正式名称は八事山興正寺)について簡単にご紹介します。
貞享5(1686)年、尾張2代目藩主徳川光友の帰依を受けて創建された名古屋の名刹です。
高野山の別格本山で、「尾張高野」とも称されます。
境内にある愛知県内唯一の五重塔は、国の重要文化財。
総本尊の大日如来像は名古屋三大仏の一つで、同市の重要文化財に指定されています。
実は、興正寺を巡っては近年、寺の土地を無断で売却(その額はなんと138億円)した元住職が、高野山真言宗の本山から罷免され、訴訟合戦を繰り広げる騒ぎがあり、地元では大きなニュースとなりました。
金額が巨額なことから、埋蔵金話とどこかつながっているのではないかとも思ったのですが、これは穿ち過ぎだったようです。(この項続く)
興正寺の五重塔=名古屋市昭和区で
埋蔵金伝説の内容を振り返ります。
元和元(1615)年の大阪夏の陣に勝利した徳川家康は、大阪城にあった豊臣家の金銀を手に入れ、「駿府御譲金」として、徳川御三家にそれぞれ30万両(時価150億円)ずつ分配したが、このうち尾張徳川家に分配された30万両の行方がわかっていない。
尾張徳川家では、有事の際にしか使ってはならないものとして、名古屋城の小天守の地下蔵に収めたが、その後ひそかに尾張徳川家の祈願寺である興正寺(こうしょうじ)の大日堂の地下に移されたらしい。
江戸時代末期の尾張藩士、奥村得義(のりよし)がまとめた名古屋城の記録「金城温古録」には、嘉永6(1853)年、尾張藩が大日堂の地下を掘り返し、30万両の発掘を試みた(実はこのときに30万両を名古屋城から移した?)という記述がある。(八重野充弘監修「日本全国『隠し財宝』完全マップ」から)
興正寺(名古屋市昭和区、正式名称は八事山興正寺)について簡単にご紹介します。
貞享5(1686)年、尾張2代目藩主徳川光友の帰依を受けて創建された名古屋の名刹です。
高野山の別格本山で、「尾張高野」とも称されます。
境内にある愛知県内唯一の五重塔は、国の重要文化財。
総本尊の大日如来像は名古屋三大仏の一つで、同市の重要文化財に指定されています。
実は、興正寺を巡っては近年、寺の土地を無断で売却(その額はなんと138億円)した元住職が、高野山真言宗の本山から罷免され、訴訟合戦を繰り広げる騒ぎがあり、地元では大きなニュースとなりました。
金額が巨額なことから、埋蔵金話とどこかつながっているのではないかとも思ったのですが、これは穿ち過ぎだったようです。(この項続く)
興正寺の五重塔=名古屋市昭和区で
(09:00)