2023年03月13日
佐々成政といえば何といっても「さらさら越え」が有名です。
天正12(1584)年12月、北アルプス・立山連峰のザラ峠と針ノ木峠を越え、現在の長野県大町市を経由して、浜松の徳川家康と面会したとされるものです。
大町市の西正院大姥(おおば)堂には、成政一行が旅の安全を祈って運んできたという大姥尊像が安置されています。
厳寒期に立山連峰を越えるのは現代の装備と技術をもってしても難しく、以前から史実なのかどうか疑問視されていましたが、近年、新史料が見つかり、新たな展開を迎えています。
その史料とは、成政側が村上義長という武将に送った複数の書状です。
成政はその中で、さらさら越えの際に義長の元を通り、世話になったことへの感謝を伝えています。
義長は信濃の武将、村上義清の次男で、越後(新潟県)の上杉景勝に仕えていましたが、離反して徳川家康に近づこうとしていました。
義長は当時、越後領内にいたという説と、追放されて飛騨地方にいたという説の二つがあります。
成政が通った道筋について、前者からは新潟県内を経由する「糸魚川ルート」、後者からは岐阜県内を経由する「安房峠ルート」が提唱されています。
成政が通った道筋について、前者からは新潟県内を経由する「糸魚川ルート」、後者からは岐阜県内を経由する「安房峠ルート」が提唱されています。
さらさら越えが、これまでいわれてきたような「立山ルート」ではなく、「糸魚川ルート」あるいは「安房峠ルート」だとすると、成政が立山ルートの途中の鍬崎山で軍用金を隠したという話はありえなくなります。(この項続く)
西正院大姥堂の大姥尊像(長野県大町市のホームページから)
(09:00)