2023年03月09日

埋蔵金の信憑性を検討するために、佐々成政の軍用金はどんな目的で隠されたのか、そもそも佐々成政(1536?~1588年)とはどういう武将だったのかという点に焦点を当ててみたいと思います。

尾張出身の成政は織田信長に仕え、朝倉義景の追討や石山本願寺の一向一揆鎮圧などで功を挙げて、天正9(1581)年に富山城主となりました。

翌10年の本能寺の変で信長が討たれると、成政は反秀吉の立場を取ります。

天正12(1584)年に信長の次男信雄(のぶかつ)が徳川家康と組んで、秀吉を相手に小牧・長久手の戦いを起こすと、成政も秀吉方の前田利家を攻めます。

信雄・家康と秀吉の間で和議が成立すると、成政は厳冬の北アルプスを越えて(有名な「さらさら越え」)浜松で家康と会い、再挙兵を直談判します。

しかし、家康の翻意はならず、孤立無援となった成政は秀吉に攻められて降伏、越中東部の新川郡を除くすべての領土を取り上げられ、大坂詰めとなります。

その後、秀吉の九州討伐に加わり、肥後(熊本県)城主に返り咲きますが、国人一揆を収めることができず、その失政を問われて天正16(1588)年、切腹させられました。

さて、肝心の成政の軍用金については、さらさら越えの際に家康への手土産にしようとして途中で隠したという説、秀吉に降伏した際に将来の再興資金として隠したという説の二通りがあります。

その額は百万両とも言われますが、成政が領内に「越中の七かね山」と呼ばれる金山を抱え、馬印や旗指物が金色だったことからも、豊富な金を所有していたことは間違いないようです。(この項続く)


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 佐々成政が生まれた比良城の跡地=名古屋市西区で

(07:00)

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