2023年03月03日

中部3県から離れますが、隠した当人は名古屋市西区にあった比良城の生まれということで、佐々成政(さっさ・なりまさ)の軍用金について整理してみたいと思います。

数ある埋蔵金伝説の中でも、成政の軍用金は有名ですが、これは長年掘り続けたトレジャーハンターの存在が大きいようです。

徳川幕府の御用金における水野家、豊臣秀吉の埋蔵金における鈴木盛司氏のように、成政の軍用金では中山喜一氏を抜きに語ることはできません。

中山氏は明治45(1912)年から63歳で亡くなる昭和18(1943)年まで、富山県の鍬崎山とその周辺で埋蔵金を探し続けましたが、遂に発見できませんでした。

中山氏が半生を埋蔵金探しに費やすことになったきっかけは、東京高等農学校(現在の東京農大)の友人から紹介された高尾覚太郎という元鉱夫の目撃譚です。

それによると、高尾が足尾銅山で働いていたころ、旅行先で知り合った上山健彦という人物に誘われ、詳しい行き先や目的を知らされないまま、山登りに付き合わされます。

山の中腹で露営した二日目の真夜中、こっそり抜け出した上山を追いかけた高尾は、岩穴の中に黄金の延べ板がぎっしり詰まった49個の甕を目撃します。

翌朝、高尾の尾行に気付いた上山は、黄金は佐々成政の軍用金で、家臣の子孫である自分が家に伝わる図面をもとに探り当てたこと、そのまま世に出すと怪しまれるので、夕張炭鉱で働く弟と相談し、北海道の金鉱から産出されたことにする計画であることを打ち明けます。(この項続く)


鍬崎山
 佐々成政の軍用金が隠されているとされる富山市の鍬崎山

(09:00)

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