2023年01月07日

焼香殿のさらに奥の一段高くなった場所に源敬公墓があります。

円形墳墓で、墳丘の上に石標が立ち、周囲には角柱の石柵が巡らされています。

さて、ここで数百万両の軍用金が埋蔵されているという石垣を捜しますが、畳2枚ほどの大きさの石も、隅に鉄のクサビが打ち込んであるという石も見つかりません。

もしかしたら地中に埋まっているのかもしれませんが、シャベルを使うわけにもいかず、埋蔵金探しはここでデッドエンドとなりました。

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  源敬公墓(尾張徳川家初代藩主義直の墓)

ところで、源敬公廟について調べていて気付いたことがあります。

それは、興正寺の大日堂の地下に埋まっているとされた尾張徳川家の駿府御譲金との共通点です。

源敬公廟は、定光寺付近の風光や自然を愛した徳川義直が自らの墓地の場所に定めたとされますが、太田正弘編「定光寺誌」(1985年)では違う見解が紹介されています。

すなわち、当時は関ケ原の戦いや大阪の陣を知っている人々がまだ生存していた時代で、定光寺は尾張徳川藩主が名古屋城から脱出した時の落ち着き先として設定されたものではないか、というものです。

興正寺は、尾張徳川家2代目藩主光友の帰依を受けて創建され、やはり、名古屋城と大日堂がトンネルで結ばれていたという伝説が残されていました。

さらに、興正寺の大日如来像が銅製なのは、いざというときに大砲にするためだという説もありましたが、源敬公廟の建物の屋根も銅板(銅の隠蔵が目的という説も)で葺かれています。

これだけ似通っていると、埋蔵金伝説が眉唾なのも同様かもしれません。(この項続く)

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 該当するような石は見つからず=いずれも愛知県瀬戸市で


(09:00)

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