2022年11月26日

堂洞合戦がどんな戦いだったのか、簡単にまとめてみます。

永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで今川義元を滅ぼした織田信長は、美濃への侵攻を本格化し、その足掛かりとして東美濃の攻略を図ります。

東美濃ではこれを阻止するため、関城の長井隼人(はやと)、加治田城の佐藤紀伊守、堂洞城の岸勘解由が中濃三城盟約を結んでいましたが、紀伊守は信長に内通します。

永禄8(1565)年、信長と紀伊守の軍が堂洞城を攻め、岸勘解由は息子の信房、長刀を手にした妻とともに必死に防戦しましたが、激戦の末に敗れます。

堂洞合戦の一部始終は「南北山城軍記」に詳しいのですが、そこには壮絶な逸話が記されています。

合戦の前、信長が金森長近を使者として勘解由のもとに送り、投降を勧めると、勘解由と信房の親子は「武士としての節義を失いたくない。覚悟のほどを見せよう」と断り、信房は金森の目の前で7歳と5歳の息子を殺してしまいます。

また、紀伊守の娘の八重緑(やえりょく)は人質として信房に嫁いでいたのですが、紀伊守が寝返り、信長と一緒に堂洞城を攻めようとしていることが分かると、刺し殺され、竹の串に貫かれて、加治田城からよく見える長尾丸山に晒されます。

さらに合戦が始まり、信房が討ち死にしたことを知った勘解由が涙を流すと、勘解由の妻は「武士が戦場で討ち死にするのは当たり前のこと」と諭します。(この後、妻と勘解由はそれぞれ「先立つも しばし残るも 同じ道と 思えば晴るる 夕暮れの雲」「待てしばし 敵の波風切り払い 共に至らん 極楽の岸」と辞世の歌を詠んで刺し違えます)

戦国時代は非情だったとはいえ、現代人にはちょっと信じ難い話です。(この項続く)


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 織田信長の東美濃侵攻の経路(「夕曇の城」より)



(08:00)

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