2022年11月13日

重原城の落城の話は、織田信長の旧臣の太田牛一が記し、史料としての信頼度も高いとされる「信長公記(しんちょうこうき)」に登場します。

そこには「駿河勢(今川義元)は、岡崎に在陣して、鴫原(重原)の山岡伝五郎の城を攻め滅ぼして乗っ取った」(現代語訳)とあります。

この後、今川勢は村木(愛知県東浦町)に砦を築き、これを信長が攻撃する(村木砦の戦い)のが天文23(1554)年1月24日ですから、実際に重原城が落城したのは埋蔵金伝説より1年早い22年のことでしょう。

現地を訪ねてみました。

名鉄三河線の重原駅から徒歩3分、上重原公民館の裏に「重原城址」と刻まれた石碑がひっそりと立っています。

説明板によると、重原城は一辺60mの方形区画を主郭とする平城で、敷地東側の竹林に空掘と土塁を確認できます。

重原城を巡っては、埋蔵金伝説以外にも幾つかの伝承が残されています。

一つは、伝五郎が今川勢の奇襲を受けて苦戦していると、権現石が大男に変身して敵の矢面に立ったという話で、この石は近くに祀られています。(埋蔵金伝説よりも、こちらの巨人伝説の方が面白いかも)

また、逃げ延びようとした伝五郎の息子が、今川勢に捕まって殺害されたとされる場所が、首切り坂という名前で残っています。

どちらも場所は少しわかりにくく、駅に案内板を設置してほしいところですが、住民には、首切り坂という名前は嫌がられるかもしれません。(この項続く)


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 権現石が祀られた祠=愛知県知立市上重原町で


(08:00)

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