2022年10月28日
岐阜県白川村保木脇の国道156沿いには、帰雲城埋没地という看板を掲げ、帰雲城址と記された石碑や観音像、帰り雲神社の祠が整備された一角があります。
帰雲城はこの場所にあったのかと誤解しそうですが、採石業を営む会社の社長が、帰雲城の武将が夢枕に立ったことから、地元の有志の協力を得て比定地に建立したものです。
帰雲城はどこにあったのか、白川村を南北に貫く庄川の右岸なのか左岸なのか。
それは長年にわたる謎でした。
郷土史研究家らでつくる白川郷埋没帰雲城調査会は平成30(2018)年、帰雲城は庄川左岸の帰雲川原という地区にあったと特定し、テレビ愛知の特集番組もそれに従います。
根拠としたのは、飛騨の役人が18世紀半ばに書いた地誌「飛騨国中案内」の記述で、そこには「氏理の居城は」「帰雲川原」と記されているとしています。
その内容を訳してみます。(地震の直後の情景を描いたものです)
「氏理の居城は言うに及ばず、その近辺を残らず打ちつぶし、大山は崩れ落ちて白川の大河はせき止められて、城下より川上は海のよう。川下の村々は残らず押し破られ、村人は取るものも取りあえず散々に山に逃げ登った。前代未聞のことである。神罰天罰はただちに下り、逃れるのは難しい。かつては帰雲、地震の後は帰山となり、今に至って、その場所を帰雲川原というようになった」
氏理の居城=帰雲川原と解釈できないこともないですが、微妙です。
しかしながら、場所の特定が大発見につながります。(この項続く)
帰雲城址と記された石碑=岐阜県白河村保木脇で
帰雲城はこの場所にあったのかと誤解しそうですが、採石業を営む会社の社長が、帰雲城の武将が夢枕に立ったことから、地元の有志の協力を得て比定地に建立したものです。
帰雲城はどこにあったのか、白川村を南北に貫く庄川の右岸なのか左岸なのか。
それは長年にわたる謎でした。
郷土史研究家らでつくる白川郷埋没帰雲城調査会は平成30(2018)年、帰雲城は庄川左岸の帰雲川原という地区にあったと特定し、テレビ愛知の特集番組もそれに従います。
根拠としたのは、飛騨の役人が18世紀半ばに書いた地誌「飛騨国中案内」の記述で、そこには「氏理の居城は」「帰雲川原」と記されているとしています。
その内容を訳してみます。(地震の直後の情景を描いたものです)
「氏理の居城は言うに及ばず、その近辺を残らず打ちつぶし、大山は崩れ落ちて白川の大河はせき止められて、城下より川上は海のよう。川下の村々は残らず押し破られ、村人は取るものも取りあえず散々に山に逃げ登った。前代未聞のことである。神罰天罰はただちに下り、逃れるのは難しい。かつては帰雲、地震の後は帰山となり、今に至って、その場所を帰雲川原というようになった」
氏理の居城=帰雲川原と解釈できないこともないですが、微妙です。
しかしながら、場所の特定が大発見につながります。(この項続く)
帰雲城址と記された石碑=岐阜県白河村保木脇で
(08:00)