2022年10月22日

穴山梅雪の埋蔵金の続きです。(この話は少々長いです)

大正2(1913)年、横浜の花咲橋に三影丹波という優れた霊術師がいると聞いた諸澄吉朗は、丹波のもとを訪ね、埋蔵場所を示した紙片の解読を依頼します。

丹波は二日後に亡くなりますが、妹の留子が解読結果と霊視内容を吉朗に伝えます。

それによると、紙片に書かれていたのは「隠し湯の湧きて流る窟穴を、のぼりて指せや地蔵小坂、朝日夕日月に照る 岩打て岩うて地蔵もうて、竹に千歳の色添えし、梅が雪見の酒なりし、千代八千代に栄えます、黄金の口ぞ汝に開かむ」という文章で、丹波は妹に「場所は身延山麓。埋蔵量は今日の価格で1億数千万円はあろう」などと具体的に語ったということでした。

二人は夫婦になり、隠し湯を下部温泉(山梨県身延町)と解釈して、探索を続けます。

大正5(1915)年、吉朗はついに一枚岩で蓋がされた洞窟を見つけ(場所は富士山麓か龍ヶ岳の麓あたり)、そのことを妊娠中の留子に伝えて喜ばせると、岩を打ち砕く道具と5日分の食料を持って、再び山に入ります。

しかし、吉朗はそのまま戻らず、留子も息子を出産後に探し回りましたが、杳として行方は知れません。

その後、静岡県富士宮市の佐藤一という人物が、富士山麓の村で行商を行うかたわら、長年にわたってこの埋蔵金を探しましたが、発見できず。

また昭和46年には、和歌山県の西谷樟雄という人物が、富士宮市麓に小坂神社と地蔵峠があることを知り、付近で洞窟の入口とみられる大岩を見つけて発掘を試みましたが、ただの岩に過ぎなかったそうです。(この項続く)


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 下部温泉駅=山梨県身延町で




(09:00)

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