2022年10月21日

最後は穴山梅雪の埋蔵金です。

といっても、もともとは信玄の軍用金で、信玄の命で元亀4(1573)年に柳沢峠(山梨県甲州市)に埋めたものを、織田・徳川軍に寝返った後に居城の下山城(同県身延町)に移し、さらに某所に埋めたとされるものです。

天正10(1582)年の武田氏の滅亡後、梅雪は徳川家康に従って安土を訪れ、織田信長から巨摩郡を任されますが、直後に本能寺の変が起き、慌てて甲州に戻ろうとした途中、宇治田原(京都府宇治田原町)で一揆に巻き込まれて亡くなります。

自業自得ともいえる最期ですが、話はここで終わりません。

一揆の軍勢に加わっていた諸澄(もろずみ)九右衛門政景が、梅雪の所持品から、埋蔵金の在りかを記した「武功録」を見つけ、仲間二人とともに埋蔵金の一部の発掘に成功します。(埋蔵場所は3カ所で、持ち出したのはそのうちの1カ所の3分の1ほど)

三人は現在の沼津市に腰を落ち着け、豪奢な生活を送りますが、これを嗅ぎ付けたほかの仲間に殺害され、埋蔵金も奪われてしまいます。

それから時は流れて徳川吉宗の時代。

沼津市の諸澄家の家がもらい火で焼け、主人が焼け跡をかき回していたところ、床下の穴から数千両の金塊と帳面の入った壺が見つかります。

九右衛門が埋めたもので、帳面には「宝を得んとするものは家宝の千馬の槍に聞くべし」と記されていましたが、千馬の槍は主人の祖父が売却済みで、どこに行ったのかわかりません。

時はさらに流れて明治42(1909)年。

先祖代々言い伝えられた「千馬の槍」を探していた諸澄吉朗は、新聞記事をきっかけに小田原市の廃屋でそれを手に入れ、柄の空洞に埋蔵量と埋蔵場所を示した紙片を見つけます。

しかし、長年の歳月を経たせいで文字の一部が欠落し、判読できません。(この項続く)


穴山梅
 穴山梅雪画像(東京大学史料編纂所所蔵模写)

(08:00)

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