2022年10月20日

続いて武田信玄の後を継いだ武田勝頼の埋蔵金です。

織田・徳川連合軍の猛攻と、重臣の穴山梅雪らの寝返りで窮地に追い込まれた勝頼は、未完成の新府城(山梨県韮崎市)に火を放つと、主従40人で天目山(甲州市大和町)へと逃れて自害します。

自害の直前、勝頼は「敵に渡すのは忍びない」とばかり、家臣の小宮山又七郎に、信玄から受け継いだ莫大な金の埋蔵を命じます。(新府城内を去る前に、家臣の長坂釣閑に命じて、城内の屋敷に埋めさせたという説もあります。後に甲斐の領主となった浅野長政が掘りましたが、見つかっていません)

又七郎はそれを2頭の馬に積むと、山中を進み、甲州市と大月市の境にある笹子峠の「地蔵小坂」というところに埋めたということです。

この埋蔵話は、又七郎の子孫とされる呉服問屋井川屋又兵衛が、「御守宝一件」と表書きした古記録を見つけて明らかにります。

そして天保12(1841)年、楢林杢右衛門ほか27人が発掘を行い、朽ち果てた木箱入りの5貫匁(約19㎏)の金塊を発見します。

ただし、古記録に記された埋蔵量(金1匁5円の当時で1億円?)と比べると、微々たる量でしかなく、まだほとんどが手付かずのままと思われます。

昭和12(1937)年から15年にかけて、静岡市泉町の影山という人物が古記録を入手して、笹子峠一帯を調査しましたが、「地蔵小坂」の場所も特定できません。

また、それとは別に昭和14年に、愛知県岡崎市の磯野という人物が「地蔵小坂」らしい場所を見つけ、発掘を試みましたが、やはり発見できず、そのままとなっているそうです。(この項続く)


武田
 武田勝頼画像(東京大学史料編纂所所蔵模写)

(08:00)

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