2022年10月07日

続いては豊臣秀吉の埋蔵金です。

秀吉が亡くなる直前の慶長3(1598)年、6歳の息子の秀頼の将来を案じて、兵庫県猪名川町の多田銀銅山の坑道21カ所に埋めさせたというものです。

天生長大判4億5000万両と金塊3万貫(112.5t)で、地金だけでも時価にして45兆円を超える計算となり、埋蔵額は断トツのナンバーワンです。

埋蔵を実行したのは勘定奉行の幡野三郎光照らで、いずれも大阪冬の陣などで亡くなり、秘密を知る者はいなくなりましたが、戦後になって三重県伊賀市の亀井家と大阪の山本徳次郎氏の家から、文書や絵図が相次いで発見され、新聞で大きく報じられました。

見つかったのは、埋蔵の経緯を記した「幡野三郎光照遺書」、秀頼が15歳になったら必要に応じて掘り出せという秀吉の遺志を書き写した「清水心龍の巻」、埋蔵場所を詳しく案内する「和田次郎光盛秘書」、多田銀山の鳥観図などです。

この後、山本氏をはじめ多く人たちが私財を投じて発掘作業を行いましたが、見つかっていません。

中でも最も有名なのは、現地に移り住んで2012年に亡くなるまで、37年にわたって探索を続けた浜松市の鈴木盛司氏でしょう。

亀井家と山本家から見つかった文書は現在は行方不明で、ほかにも新たな文書が出てきたりして、どれが原本か写しなのか判断できない状況となっているようです。

また、文書を読んだ専門家が「書かれているのは『大阪城には4億5000万両があり、当面これ以上の金は必要ない。多田銀山の採掘を中断し、将来必要になったときのために鉱脈を書き残しておく』という内容で、黄金を埋めたというのは誤読である」と指摘したという情報もあります。(この項続く)


mabuaoki
 多田銀銅山(猪名川町のホームページから)

(08:00)

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