2022年10月05日
今後の埋蔵金探しのターゲットを絞るために、あらためて日本の三大埋蔵金伝説について情報をまとめてみたいと思います。
三大埋蔵金伝説とは、徳川幕府の御用金、豊臣秀吉の黄金、結城晴朝(はるとも)の埋蔵金です。
徳川埋蔵金はテレビ番組で何度も取り上げられ、最もメジャーな埋蔵金伝説といっていいでしょう。
幕末の大老・井伊直弼の発案で、海外への金の流出を避けるため、あるいは将来の戦費とするため、徳川幕府の御用金384万両を群馬県の赤城山に隠したというものです。
御用金の埋蔵に関わった義父の中島蔵人(くらんど)からこの話を聞いた水野智義氏が、赤城村津久田原(現・渋川市赤城町津久田)で明治16(1883)年に発掘を始め、以来、次男の義治氏、その弟の愛三郎氏、その次男の智之氏と、3代にわたって作業が続けられましたが、発見できませんでした。(智之氏は2011年に死去)
智義氏は、「源次郎の井戸」と呼ばれる古井戸から銅製の徳川家康像と銅皿、そこから北東3・2kmの位置にある双永寺の床下から謎文(「一は万物の始め、一将を覚えるときは七臣に達して天下太平なり」)と絵図が記された3枚の銅板を見つけ、徳川埋蔵金の在りかを示す手がかりとして注目を集めjました。
これまで数多くの埋蔵金マニアによって解読が試みられましたが、現在ではこうした「物証」は徳川埋蔵金とは関係ないという見方が大勢です。
また、TBSテレビの発掘チームが見つけた人工的な空洞も、太平洋戦争直前の昭和15(1940)年に、当時の近衛文麿内閣が在郷軍人を集めて行った大規模な発掘作業の名残であることが分かっています。
ただし、徳川埋蔵金については赤城山以外にも、武士団が荷物を運ぶのを目撃したという証言があり、400万両近くとはいわないまでも、数十万両の御用金がどこかに埋まっているのではないかと言われています。(この項続く)
徳川埋蔵金伝説の舞台となった赤城山
三大埋蔵金伝説とは、徳川幕府の御用金、豊臣秀吉の黄金、結城晴朝(はるとも)の埋蔵金です。
徳川埋蔵金はテレビ番組で何度も取り上げられ、最もメジャーな埋蔵金伝説といっていいでしょう。
幕末の大老・井伊直弼の発案で、海外への金の流出を避けるため、あるいは将来の戦費とするため、徳川幕府の御用金384万両を群馬県の赤城山に隠したというものです。
御用金の埋蔵に関わった義父の中島蔵人(くらんど)からこの話を聞いた水野智義氏が、赤城村津久田原(現・渋川市赤城町津久田)で明治16(1883)年に発掘を始め、以来、次男の義治氏、その弟の愛三郎氏、その次男の智之氏と、3代にわたって作業が続けられましたが、発見できませんでした。(智之氏は2011年に死去)
智義氏は、「源次郎の井戸」と呼ばれる古井戸から銅製の徳川家康像と銅皿、そこから北東3・2kmの位置にある双永寺の床下から謎文(「一は万物の始め、一将を覚えるときは七臣に達して天下太平なり」)と絵図が記された3枚の銅板を見つけ、徳川埋蔵金の在りかを示す手がかりとして注目を集めjました。
これまで数多くの埋蔵金マニアによって解読が試みられましたが、現在ではこうした「物証」は徳川埋蔵金とは関係ないという見方が大勢です。
また、TBSテレビの発掘チームが見つけた人工的な空洞も、太平洋戦争直前の昭和15(1940)年に、当時の近衛文麿内閣が在郷軍人を集めて行った大規模な発掘作業の名残であることが分かっています。
ただし、徳川埋蔵金については赤城山以外にも、武士団が荷物を運ぶのを目撃したという証言があり、400万両近くとはいわないまでも、数十万両の御用金がどこかに埋まっているのではないかと言われています。(この項続く)
徳川埋蔵金伝説の舞台となった赤城山
(12:00)