2022年09月23日

前回、5代目前野小平治が埋蔵金を埋めるまでをたどってみましたが、今回はその後です。

前野家小平治が、必ずしもその子供によって襲名されていない点にもご注目ください。

弘化3(1846)年
5代目が死去。全国的な凶作に見舞われ、6代目(4代目の子、1825~69年)は本邸の普請や西屋敷の新築で、村内外の人たちに働き口を作る
茶の湯や小鼓、人形芝居などの芸事に凝って、普及に務める。 快速船を仕立てて伊勢古市の油屋(遊郭)に通って豪遊し、梅の間を再建する 高宮(たかのみや)神社に百数十段に及ぶ石段参道を寄進

弘化4(1847)年
7代目(6代目の甥の子、1845~77年)が3歳で名目上の後継者となる
半田村小栗家の養子となっていた父親の小栗宗徳は、病気静養を理由に6代目を軟禁すると、7代目の後見人として実権を振るうが、事業はことごとく失敗、持ち船も次々と難破して、家運は衰退の一途たどる

明治元(1868)年
小栗宗徳が死去。7代目は隠居を決め、前野家の財産を折半すると妻子とともに半田に引き上げる

明治5(1872)年
8代目(6代目の子、1855~1930年)が22歳で当主となる

明治23(1890)年
8代目が旧藩債返還の訴訟を正式に提訴(前野家から尾張藩への貸し金は調達金だけで26万余両、30億円相当に上るという)。名古屋区長が仲介に入り、示談解決という話になったが、泣き寝入りに
宝蔵の板壁から埋蔵金の明細書とその場所を示した絵図を発見、屋敷内を探し、掘りまくったが発見できず
(この項続く)


石段
 前野小平治が寄進した高野宮神社の石段=愛知県南知多町で

(09:00)

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