2022年09月22日

前々回で、前野小平治の埋蔵金について少し長めの概要を掲載しましたが、事実あるいは事実と見られることを、さらに詳しく時系列に並べてみたいと思います。

前野家の代々の当主については、9代目小平治の前野いねさんの夫である東大路保義氏が記録を残しており、それも参考にします。

元禄16(1703)年
前野小次郎が分家して小平治(初代)を名乗り、廻船業を営む

明和4(1767)年
2代目(初代の子)が綿や米穀の取引にも手を染めて財を成し、尾張藩から金子の調達(借金)を命じられる

安永5(1776)年
3代目(2代目の甥)が尾張藩の御用達となる

享和4(1804)年
4代目(3代目の甥)が尾張藩の御用達となり、ついには独礼御目見に昇格する
家業を全国物産の交流売買、運輸、金融、土地不動産の4部門に分け、さらに繫栄する

文政7(1824)年
5代目(3代目の子、1793~1846年)が泉蔵院に金毘羅堂拝殿を寄進
商圏を九州から仙台までに拡大し、その名を全国に轟かす

天保5(1834)年
天保の飢饉で、5代目が江戸町奉行所の要請を受け、4万3千石の米を各地から江戸へ運ぶ

天保14(1834)年
尾張藩が密貿易を理由に前野家を取り潰して財産を没収しようと考え、徹底的な「間調べ」を行う。5代目は廃業を覚悟すると、できる限りの金銀貨幣を集め、保字小判数千枚、大吉小判数千枚、真文小判数千枚を埋蔵する。その後、尾張藩は方針を改め、前野家は危うく難を逃れる
(この項続く)


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 金毘羅堂拝殿=愛知県南知多町の泉蔵院で    

(08:00)

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