2022年09月06日

大日堂の開堂日である5日に興正寺を訪ねました。

この日は寺の縁日ということもあって、境内のあちこちに食品や雑貨を売る屋台が繰り出され、大勢の参拝客でにぎわっていました。

目指す大日堂は境内の東北に位置し、西山本堂の正面右のエスカレーターを上り、墓地を抜けた先の小山の上にあります。

鎮座する大日如来像は元禄10(1697)年、尾張徳川家二代藩主光友が母の供養のために鋳造させたもの。

高さ3.6mで、全体的に丸みを帯び、穏やかな表情で、温和な雰囲気です。

江戸時代前期の仏教美術を代表する大仏として、一見の価値があると思われます。

果たしてこの下に駿府御譲金の30万両が埋まっているのか、すぐにも掘って確かめたいところですが、場所が場所だけに簡単にはいきそうにありません。

ところで大日堂を巡っては、30万両の埋蔵金のほかにも幾つかの伝説が残されています。

名古屋城と大日堂が地下道で結ばれている(直線距離で約6kmあります)という話や、大日如来像が銅製なのは、いざというときに大砲にするためだという話などです。

もともと興正寺は「藩主の寺」で、江戸時代は葬祭檀家も本山も持たず(高野山を本山としたのは明治6年から)、大日堂のある東山では女人禁制が敷かれていました。

庶民に縁遠い存在だったために、謎や伝説が生まれたのかもしれません。

地下道や大砲は荒唐無稽といっていいお話ですが、果たして埋蔵金はどうでしょうか。(この項続く)


IMG_1967
 興正寺の大日堂。かつてはここから熱田の森や名古屋の港が見えたという

(08:00)

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