2022年09月07日

尾張徳川家の駿府御譲金のありかを探るに当たり、ここで埋蔵金伝説の内容を確認してみたいと思います。

伝説では、大阪城にあった豊臣家の金銀を、徳川御三家に30万両ずつ分配したとありますが、ネットで調べると、徳川家康が亡くなった後の遺産分けで、総額200万両に上る金のうち、尾張、紀伊両家に30万両ずつ、水戸家に10万両が分与され、残りを江戸政府が引き継いだという情報があります。

水戸家の金額は異なりますが、尾張家に30万両が引き渡されたというのは、事実としてあったことでしょう。

ただ、御三家のうち、尾張家の30万両だけ行方が分かっていない、というのは確認できません。

続いて、嘉永6(1853)年に大日堂の地下が掘り起こされた話です。

奥村得義の「金城温古録」に記載されているということですが、これが10編64巻に上り、簡単に見つかりません。

これでデッドエンドかと諦めかけたのですが、たまたま、中京大の阿部英樹教授の著書「江戸時代の八事山興正寺」をめくっていて、同じ奥村得義が書いた随筆「松濤棹筆(しょうとうとうひつ)」に、大日堂の発掘の話が詳しく記されていることがわかりました。

発掘話というより、発掘騒ぎといった方が適当かもしれません。

奥村が嘉永7年4月に興正寺を訪ね、懇意にしている住職から、前年の冬に起きた騒ぎを聞き出すというスタイルをとっているのですが、これがかなり具体的で、びっくりする内容です。

そして残念ながら、この埋蔵金に脈がないことも判明してしまいました。(この項続く)

IMG_1964
 興正寺の大本尊である大日如来像

(08:00)

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