2022年08月31日

埋蔵金伝説との矛盾点は、名古屋市史の小笠原監物(吉光)についての記述の中に見つかりました。

以下、松平忠吉が亡くなる前後の吉光の動向を箇条書きにしてみました。

慶長11年月12日、吉光は気に沿わないことがあって清洲を離れ、奥州松嶋の寺院に蟄居した。

翌年3月5日に忠吉が亡くなり、12日に訃報を受け取った吉光は、直ちに江戸に向かった。

16日に江戸に到着した吉光は、国老の阿部正致に弔辞を述べ、「私は忠吉公から多大な恩義を受けており、逝去された時には後を追うと誓っている。今やその時が来た」と語った。

翌17日、徳川家の菩提寺である増上寺を詣でた吉光は、白小袖、長袴の姿で庭に出ると、立ったまま切腹し、旧友の山内真次が介錯した。


つまり、宮城県の松島で忠吉の病死を知った吉光は、その5日後に東京で切腹しており、清洲に戻って再興資金を埋めるような時間はありません。(ちなみに忠吉が亡くなった後、家臣4人が殉死しています)

以下は私が導き出した結論です。

日吉神社の境内から見つかった大判に「監物所持」と読めるような墨書きがあったのは、もしかしたら事実かもしれません。

しかし、大判は小笠原監物がお家再興のために埋めた資金ではなく、そうした伝説は、監物が主君のための殉死を厭わない忠臣であったことから生まれた作り話でしょう。

誰が埋蔵金を埋めたかはわかりませんが、お家再興の資金でないとすれば、日吉神社の境内から新たに大判が見つかることはなさそうです。(この項終わり。調査に協力していただいた日吉神社と清須市立図書館の職員の方に御礼申し上げます)

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 名古屋市千種区にある殉死者碑。左から2人目に小笠原監物の名前がある


(08:00)

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