2022年11月25日

今回は歴史の勉強と観光をメインに、堂洞(どうぼら)城の埋蔵金を取り上げたいと思います。

堂洞城は岐阜県富加町にあった平山城で、斎藤道三、義龍(よしたつ)、義興(たつおき)の3代に仕えた岸勘解由信周(かげゆ・のぶちか)が城主でしたが、永禄8(1565)年の堂洞合戦で落城し、現在は城跡のみが残っています。

堂洞城の埋蔵金について、昭和53(1978)年発行の美濃加茂市史に、以下のような口承が記録されています。

勘解由は落城にあたって、軍用金を埋め、今わのきわに「夕日さす 朝日かげらふ堂洞城に 小金ざっくりかくし置く」と詠んで果てた。

だから、堂洞城址のどこかに、たくさんの黄金が埋まっているのだという。

織田信長による東美濃攻略の最大のヤマ場となった堂洞合戦は、「堂洞軍記」「南北山城軍記」など江戸時代に書かれた軍機物に描かれていますが、手軽に読める本があります。

富加町と美濃加茂市、坂祝町が平成29(2017)年に発行した「織田信長の東美濃攻略歴史PRマンガ『夕雲の城』」です。(残念ながら現在は図書館でしか入手できません)

マンガの主人公は加治田城主、佐藤紀伊守忠能(きいのかみ・ただよし)の家臣、涯良沢(がい・りょうたく)で、佐藤忠能の使者として信長側へ派遣され、内通を伝える人物です。

本来なら堂洞城主の岸勘解由を主人公としたいところですが、(これは私の想像ですが)子供向けの本ということで、できなかったのでしょう。

作者の苦労の跡がうかがえます。(この項続く)

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 マンガ「夕雲の城」のパネル=富加町郷土資料館で

(08:00)

2022年11月23日

古文書入門講座のテキスト4を終え、添削課題を提出して講座が終了しました。

テキスト4では時代を下って、坂本龍馬、西郷隆盛、土方歳三の3人の幕末志士の自筆の手紙を読みます。

坂本の手紙は「エヘンの手紙」と呼ばれる有名なもので、勝海舟の門人となったことを3歳年上の姉の坂本乙女に自慢する内容。

西郷の手紙は、江戸城総攻撃の予定の前日に勝海舟に宛てたもの。

土方の手紙は会津戦争の最中に書かれたもので、現在確認されている手紙の中では存命中最後のものとされ、いずれも史料として興味深い内容です。

例によって、健忘録を兼ねて重要事項をまとめてみます。

ひらがなの「に」には、「耳」と「尓」のくずし字がある
「門」のくずし字は今の活字と異なり、丸ごと覚えるしかない
「罷(まか)る」は、「行く」の謙譲語として使われる
「御座候」はひとまとめで覚える
「月」のくずし字には、よく出てくる2種類の形がある

さて通信講座を修了した感想ですが、「入門講座」とある通り、古文や漢文の知識がない人間でも始められる、極めて初歩的な内容です。

歴史的な人物の古文書を教材として取り上げることで受講者の興味を駆り立て、頻出文字の丸暗記と、部首を手掛かりにして古文書字典を引くことを勧める指導方針は、徹底しています。

講座を終えて古文書が読めるようになったとは正直言えませんが、針路は定まった気がします。

今後は、外国語の習得と同様、できるだけ多くの古文書にチャレンジするつもりです。(その前にテキストに載っている古文書の復習が必要ですが)


龍馬
 「坂本龍馬書状」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)



(08:00)

2022年11月21日

無量寺の近くに住む伊豆原さんからもお話を聞くことができました。

ご年配の女性の方で、先祖が立山に埋蔵金を埋めたという話を知っており、しばらく前には、同じ伊豆原姓の親戚が発掘を試みたそうです。

こうなると、「小金下の埋蔵金」よりも「伊豆原氏の埋蔵金」とした方が正確かもしれません。(実際のところ、立山の住所は莇生町立山で、莇生町小金下ではありません)

さて、いよいよ立山で埋蔵金を探索します。

周りが私有地でアクセスしにくいのですが、伊豆原さんのご自宅のそばのミカン畑から登らせていただけることになりました。

山といっても標高およそ74mの小さな山です。

竹と樹木が生い茂っていますが、それほど密集しておらず、以前に探索した一色山城や帰雲城と比べるとずっと歩きやすいです。

まずは、頂上部分にあったとされる祠跡を探しましたが、それらしいものは見つかりません。(小さな石柱のようなものがあり、金属探知機で調べましたが、反応はありませんでした)

この後、一時間ほど時間をかけて、金属探知機でかなり念入りに探索しましたが、見つかったのはアルミ缶一個だけ。

東側は東名高速道路で、山が切り開かれていることから、もしかしたら、道路を建設する際に埋蔵金が出土していたかもしれません。

というわけで、今回の埋蔵金探しも空振りに終わりました。(この項終わり。調査にご協力いただいた無量寺の山田住職に御礼申し上げます)


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 石柱のようなものが見つかったが…=愛知県みよし市莇生町立山で

(09:00)

2022年11月20日

みよし市は名古屋市の中心部から高速道路を使って車で40分弱ほどのところにあります。

莇生町小金下の無量寺を訪ね、山田憲昭住職にお話を伺いましした。

5年前に語ったことは覚えていないということでしだが、埋蔵金伝説の詳細について、あらためてお聞きすることができました。(内容は少し違っています)

無量寺裏の立山の山頂にあった祠の下に軍資金を埋めたのは、徳川家康ではなく、桶狭間の戦いで敗れてこの地に逃げ延びた伊豆原六郎左衛門重房。

伊豆原氏は愛知県大府市の横根城の城主でしたが、家来とともにそのまま莇生町に住み着き、現在、同町にはその子孫である伊豆原姓の家が何軒もあるとか。

また、小金下という字名はこの埋蔵金伝説に因んで生まれたそうです。(三好町誌に記されているように、小金下という地名から埋蔵金伝説が生まれたわけではないようです)

さらに大正時代の終わりに、埋蔵金を見つけようと山を掘った人物がいたらしい。

日本姓氏語源辞典で伊豆原という姓を調べると、「愛知県大府市横根町の横根城に戦国時代にあった。愛知県みよし市莇生町では桶狭間の戦いの後に来住したと伝える」と確かに記されています。

三好市のほかの町ではこの姓はみられません。

山田住職は埋蔵金話を、今は亡き地元の長老から聞いたそうです。

「昔の資料が残っていればもっと詳しいことがわかるのだが、伊勢湾台風で水浸しとなり、処分してしまった」と残念がられていました。(この項続く)


無量寺
 無量寺。右奥が立山=愛知県みよし市莇生町小金下で

(09:00)

2022年11月19日

このブログで以前に「愛知の埋蔵金伝説」の一つとして紹介した「小金下(こがねした)の埋蔵金」については、「朝日さす夕日かがやく…」という決まり文句が出てくることから、信憑性はないと判断して無視していましたが、ネットで興味深い情報を見つけました。

愛知県みよし市莇生町小金下の無量寺の住職が5年前、地元のお話し会で「寺の裏の立山に、徳川家康の軍資金が隠されているという逸話があり、これを目当てに掘った痕跡がいくつもあった」と語ったというものです。

これが本当なら、埋蔵金の存在を信じて行動に移した人間が少なからずいたことになります。

そんなわけで、地元の埋蔵金伝説を調べ尽くす意味からも、「小金下の埋蔵金」を今回調査してみたいと思います。

まずは、埋蔵金伝説について記録した文献から。

1962(昭和37)年発行の三好町誌に「当町には、かねとよぶ地名がかなりに多い…『朝日さす夕日かがやく木の下に…。』の歌を残し、金の茶釜でも埋めてあると伝承された莇生字小金下は、金の字をあてたことから、あらぬ伝説を生じたものと思われる」という記述を見つけました。

埋蔵金伝説を「あらぬ伝説」と片付けてはいますが、地元にずいぶんと流布していたことが伺えます。

町誌は「莇生」という地名の由来に関する伝承も紹介しています。

永禄3(1560)年5月、桶狭間の戦いに敗れて逃げてきた武将を、農民が古井戸に隠し、草を覆って追っ手から助けた。

その武将が徳川家康で、草のお陰で助かったことから、地名を「莇生」と改めた。

作り話にしては出来過ぎな感じがしますが、もちろん、桶狭間の戦いで家康がこの地に逃げ延びたという史実はありません。(この項続く)


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 埋蔵金が埋まっているとされる立山=愛知県みよし市莇生町小金下で

(09:00)