2022年12月02日
埋蔵金関連ニュース
フィリピンの刑務所の敷地に巨大な穴が掘られていたことがわかり、山下財宝との関連が注目されている。
フィリピンの刑務所の敷地に巨大な穴が掘られていたことがわかり、山下財宝との関連が注目されている。
マニラタイムズなどによると、穴が掘られていたのはマニラ市内にあるニュー・ビリビッド刑務所の敷地で、穴は幅40m、深さ60m。
著名なラジオ司会者ペルシバル・マバサ氏の殺害を命じた疑いが持たれているジェラルド・バンタグ矯正局長が、掘削を指示したとされる。
当初、穴は脱獄のために掘られたのではないかと見られたが、バンタグ局長は地元メディアのインタビューで「スキューバダイビングの訓練用に深いプールを造る目的だった」とこれを否定。
さらにクリスピン・レムラ司法長官は、バンタグ局長本人から8月に「山下財宝を探すために掘った」と言われ、止めるよう諫めたことを明らかにした。
山下財宝は、第2次世界大戦が終結する際に、旧日本軍が東南アジアから収奪した金塊などをフィリピン国内に埋めたという伝説に基づくもので、フィリピン方面軍司令官だった山下奉文大将の名前から、そう呼ばれる。
山下大将は終戦後、戦争犯罪人として裁かれる間、この刑務所に収容されていた。
マルコス政権への批判を繰り返していたマバサ氏は9月3日にマニラ市内の自宅近くで銃に撃たれて死亡し、実行犯のジョエル・エストリアル容疑者が出頭したが、同容疑者は「ニュー・ビリビッド刑務所の受刑者から依頼された」と供述。
その後、この受刑者が不審な窒息死を遂げ、バンタグ局長が事件の黒幕との疑いが持たれている。
(09:00)
2022年12月01日
埋蔵金関連ニュース
米国のトレジャーハンター、ジョセフ・クックさん(37歳)がフロリダ州の海岸で4万ドルのダイヤの指輪を見つけ、指輪は無事持ち主に返還された。
ピープル誌などによると、金属探知機を使ってセントオーガスティンの海岸を探索していたクックさんは、砂の中から指輪を発見した。
宝石店に鑑定してもらうと、指輪はダイヤとプラチナでできており、その価値はなんと約4万ドル(約550万円)。
クックさんがSNSに指輪の映像を投稿し、「指輪を無くした人を知らないか」と地元の店を訪ね回ったところ、2週間後に婚約指輪を無くしたというジャクソンビルに住む夫婦から電話が入った。
「ビデオ通話で指輪を見せると、奥さんは『神様、信じられない』といって泣き出したんだ」とクックさん。
クックさんは何もお礼を受け取らずに、指輪を夫婦に返した。
がっかりしていないか、という質問に、クックさんは「していません。私はカルマ(因果応報)を信じています。何かを返せば、それ以上のものを見つけることができる」と回答。
その言葉の通りに、カルマさんはすぐに別のダイヤの指輪を発見したという。
(埋蔵金関連のニュースを訳して不定期にアップします。婚約指輪が手元に戻った夫婦はどれほど喜んだことでしょう。私も「カルマを信じています」と言ってみたいものです)
米国のトレジャーハンター、ジョセフ・クックさん(37歳)がフロリダ州の海岸で4万ドルのダイヤの指輪を見つけ、指輪は無事持ち主に返還された。
ピープル誌などによると、金属探知機を使ってセントオーガスティンの海岸を探索していたクックさんは、砂の中から指輪を発見した。
宝石店に鑑定してもらうと、指輪はダイヤとプラチナでできており、その価値はなんと約4万ドル(約550万円)。
クックさんがSNSに指輪の映像を投稿し、「指輪を無くした人を知らないか」と地元の店を訪ね回ったところ、2週間後に婚約指輪を無くしたというジャクソンビルに住む夫婦から電話が入った。
「ビデオ通話で指輪を見せると、奥さんは『神様、信じられない』といって泣き出したんだ」とクックさん。
クックさんは何もお礼を受け取らずに、指輪を夫婦に返した。
がっかりしていないか、という質問に、クックさんは「していません。私はカルマ(因果応報)を信じています。何かを返せば、それ以上のものを見つけることができる」と回答。
その言葉の通りに、カルマさんはすぐに別のダイヤの指輪を発見したという。
(埋蔵金関連のニュースを訳して不定期にアップします。婚約指輪が手元に戻った夫婦はどれほど喜んだことでしょう。私も「カルマを信じています」と言ってみたいものです)
(08:00)
2022年11月30日
堂洞城は、岐阜県の富加町と美濃加茂市にまたがる山(標高192m)の頂上にあります。
麓の富加町郷土資料館で、事前に地図をもらうことをお勧めします。
すれ違いができない細い道をずんずんと登りますが、登り切ったところに巨大な貯水タンクがあり、車を2、3台を駐車することができます。
そこから東へ100m歩くと、城主の岸勘解由らが酒盛りをしたと伝わる「八畳岩」、逆に西へ350mほど歩くと、堂洞城の主郭があった場所にたどり着きます。(途中、イノシシの侵入防止のために設けられた金網フェンスを通り抜けます)
曲輪は見られますが、それ以外には城があった痕跡は確認されません。
日曜日の昼間に訪ねたのですが、私以外の観光客はゼロ。
隣がゴルフ場らしく、ショットの音やプレーヤーの話し声がすぐ近くに聞こえます。
今回は、冒頭にも記しましたが、埋蔵金が埋まっている可能性はほとんとどないと判断し、歴史の勉強と観光を主目的に現地を訪ねました。
前述の美濃加茂市史には、堂洞城の埋蔵金について、親切な解説が記されています。
「朝日さし夕日輝く」所に埋蔵金が埋まっているという伝説は全国至るところにあるといっても過言ではない。…長者が死ぬ前にその財宝を埋め、そのありかを隠して謎のような歌を残しておいたというのが最も多いパターンで、これにつられて土掘りをし、無駄な金を使ったという人もたくさんある。堂洞城の埋蔵金も、この話の変形であるが、悲壮な最期をとげた岸勘解由に対する庶民の心情がこの埋蔵金伝説を生みだしたものであろうか。(この項終わり)

堂洞城の主郭があった場所に立つ説明版=岐阜県富加町で
麓の富加町郷土資料館で、事前に地図をもらうことをお勧めします。
すれ違いができない細い道をずんずんと登りますが、登り切ったところに巨大な貯水タンクがあり、車を2、3台を駐車することができます。
そこから東へ100m歩くと、城主の岸勘解由らが酒盛りをしたと伝わる「八畳岩」、逆に西へ350mほど歩くと、堂洞城の主郭があった場所にたどり着きます。(途中、イノシシの侵入防止のために設けられた金網フェンスを通り抜けます)
曲輪は見られますが、それ以外には城があった痕跡は確認されません。
日曜日の昼間に訪ねたのですが、私以外の観光客はゼロ。
隣がゴルフ場らしく、ショットの音やプレーヤーの話し声がすぐ近くに聞こえます。
今回は、冒頭にも記しましたが、埋蔵金が埋まっている可能性はほとんとどないと判断し、歴史の勉強と観光を主目的に現地を訪ねました。
前述の美濃加茂市史には、堂洞城の埋蔵金について、親切な解説が記されています。
「朝日さし夕日輝く」所に埋蔵金が埋まっているという伝説は全国至るところにあるといっても過言ではない。…長者が死ぬ前にその財宝を埋め、そのありかを隠して謎のような歌を残しておいたというのが最も多いパターンで、これにつられて土掘りをし、無駄な金を使ったという人もたくさんある。堂洞城の埋蔵金も、この話の変形であるが、悲壮な最期をとげた岸勘解由に対する庶民の心情がこの埋蔵金伝説を生みだしたものであろうか。(この項終わり)

堂洞城の主郭があった場所に立つ説明版=岐阜県富加町で
(08:00)
2022年11月29日
堂洞合戦を巡るエピソードの中で、何といっても悲惨なのは、父親の佐藤紀伊守が織田信長に寝返ったために殺され、竹の串に貫かれて長尾丸山に晒された八重緑でしょう。
子供向けのマンガではさすがにこの場面をはっきりと描けず、シルエットで示唆しています。
「堂洞軍記」によると、忠能の家臣の西村治郎兵衛がその日の夜に忍び込んで死体を奪取し、龍福寺に弔ったそうです。
岸勘解由が残忍な人物に見えますが、八重緑はあくまで人質としてに差し出されていたのですから、殺されるのは覚悟していたことでしょう。
八重緑を巡っては5年前にちょっとしたニュースがありました。
実は、マンガに登場する「八重緑」という名前は、地元に伝承で伝えられてきたもので、史料の上では名前は不明でした。
ところが、マンガが出版された直後に、慶応3(1867)年に書写された「堂洞軍鑑記」が岐阜県富加町の旧家で見つかり、そこに「八重緑」という名前が記されていることがわかったのです。
マンガを読んだこの旧家の人間が、自宅の倉庫に古文書があることを思い出し、探して発見したそう。
富加町の教育委員会は「地域に残る口頭伝承には少なくとも150年の重みがあったことになり、地域の伝承が持つ意義を見直す成果となった」とコメントを出しました。
口頭伝承は信憑性が低くみられがちですが、そうとばかりはいえないようです。
このことは埋蔵金伝説にもあてはまるかもしれません。(この項続く)

「堂洞軍記」の安政2(1855)年の写本(富加町郷土資料館所蔵)
子供向けのマンガではさすがにこの場面をはっきりと描けず、シルエットで示唆しています。
「堂洞軍記」によると、忠能の家臣の西村治郎兵衛がその日の夜に忍び込んで死体を奪取し、龍福寺に弔ったそうです。
岸勘解由が残忍な人物に見えますが、八重緑はあくまで人質としてに差し出されていたのですから、殺されるのは覚悟していたことでしょう。
八重緑を巡っては5年前にちょっとしたニュースがありました。
実は、マンガに登場する「八重緑」という名前は、地元に伝承で伝えられてきたもので、史料の上では名前は不明でした。
ところが、マンガが出版された直後に、慶応3(1867)年に書写された「堂洞軍鑑記」が岐阜県富加町の旧家で見つかり、そこに「八重緑」という名前が記されていることがわかったのです。
マンガを読んだこの旧家の人間が、自宅の倉庫に古文書があることを思い出し、探して発見したそう。
富加町の教育委員会は「地域に残る口頭伝承には少なくとも150年の重みがあったことになり、地域の伝承が持つ意義を見直す成果となった」とコメントを出しました。
口頭伝承は信憑性が低くみられがちですが、そうとばかりはいえないようです。
このことは埋蔵金伝説にもあてはまるかもしれません。(この項続く)

「堂洞軍記」の安政2(1855)年の写本(富加町郷土資料館所蔵)
(08:00)
2022年11月26日
堂洞合戦がどんな戦いだったのか、簡単にまとめてみます。
永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで今川義元を滅ぼした織田信長は、美濃への侵攻を本格化し、その足掛かりとして東美濃の攻略を図ります。
東美濃ではこれを阻止するため、関城の長井隼人(はやと)、加治田城の佐藤紀伊守、堂洞城の岸勘解由が中濃三城盟約を結んでいましたが、紀伊守は信長に内通します。
永禄8(1565)年、信長と紀伊守の軍が堂洞城を攻め、岸勘解由は息子の信房、長刀を手にした妻とともに必死に防戦しましたが、激戦の末に敗れます。
堂洞合戦の一部始終は「南北山城軍記」に詳しいのですが、そこには壮絶な逸話が記されています。
合戦の前、信長が金森長近を使者として勘解由のもとに送り、投降を勧めると、勘解由と信房の親子は「武士としての節義を失いたくない。覚悟のほどを見せよう」と断り、信房は金森の目の前で7歳と5歳の息子を殺してしまいます。
また、紀伊守の娘の八重緑(やえりょく)は人質として信房に嫁いでいたのですが、紀伊守が寝返り、信長と一緒に堂洞城を攻めようとしていることが分かると、刺し殺され、竹の串に貫かれて、加治田城からよく見える長尾丸山に晒されます。
さらに合戦が始まり、信房が討ち死にしたことを知った勘解由が涙を流すと、勘解由の妻は「武士が戦場で討ち死にするのは当たり前のこと」と諭します。(この後、妻と勘解由はそれぞれ「先立つも しばし残るも 同じ道と 思えば晴るる 夕暮れの雲」「待てしばし 敵の波風切り払い 共に至らん 極楽の岸」と辞世の歌を詠んで刺し違えます)
戦国時代は非情だったとはいえ、現代人にはちょっと信じ難い話です。(この項続く)

織田信長の東美濃侵攻の経路(「夕曇の城」より)
永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで今川義元を滅ぼした織田信長は、美濃への侵攻を本格化し、その足掛かりとして東美濃の攻略を図ります。
東美濃ではこれを阻止するため、関城の長井隼人(はやと)、加治田城の佐藤紀伊守、堂洞城の岸勘解由が中濃三城盟約を結んでいましたが、紀伊守は信長に内通します。
永禄8(1565)年、信長と紀伊守の軍が堂洞城を攻め、岸勘解由は息子の信房、長刀を手にした妻とともに必死に防戦しましたが、激戦の末に敗れます。
堂洞合戦の一部始終は「南北山城軍記」に詳しいのですが、そこには壮絶な逸話が記されています。
合戦の前、信長が金森長近を使者として勘解由のもとに送り、投降を勧めると、勘解由と信房の親子は「武士としての節義を失いたくない。覚悟のほどを見せよう」と断り、信房は金森の目の前で7歳と5歳の息子を殺してしまいます。
また、紀伊守の娘の八重緑(やえりょく)は人質として信房に嫁いでいたのですが、紀伊守が寝返り、信長と一緒に堂洞城を攻めようとしていることが分かると、刺し殺され、竹の串に貫かれて、加治田城からよく見える長尾丸山に晒されます。
さらに合戦が始まり、信房が討ち死にしたことを知った勘解由が涙を流すと、勘解由の妻は「武士が戦場で討ち死にするのは当たり前のこと」と諭します。(この後、妻と勘解由はそれぞれ「先立つも しばし残るも 同じ道と 思えば晴るる 夕暮れの雲」「待てしばし 敵の波風切り払い 共に至らん 極楽の岸」と辞世の歌を詠んで刺し違えます)
戦国時代は非情だったとはいえ、現代人にはちょっと信じ難い話です。(この項続く)

織田信長の東美濃侵攻の経路(「夕曇の城」より)
(08:00)
