2023年01月11日

以前にこのブログで、愛知県内の埋蔵金伝説についてほとんど調べ尽くしたと記しましたが、今回取り上げる「法輪寺の黄金伝説」が本当の最後となります。

私が知らない県内の埋蔵金伝説はまだまだあるはずで、引き続き資料や文献の調査は続けますが、一応の区切りといえそうです。

法輪寺(名古屋市守山区)の黄金伝説は地元ではそれなりに知られているようですが、埋蔵金関連の書籍などには一切取り上げられていません。

話が少々出来すぎていることが一因かと思われますが、実際に調べてみた私の感想では、ほかの埋蔵金伝説に勝るとも劣らぬ信憑性があるように思われます。

まだ誰も解読できていない謎の一文が、埋蔵金発掘のカギになっている点にも大きな魅力を感じます。

まずは黄金伝説の内容を記します。

平安時代末期、藤原秀衡の命により源義経の家臣となった佐藤継信、忠信兄弟は、平家討伐で手柄を立てるが、継信は屋島の戦いで戦死し、忠信も義経が兄頼朝に追われる身となった後、京都で潜伏中に襲撃され、自害する。

文治3(1187)年、息子たちを弔うために奥州から京都へ向かった母親の乙和御前は、途中、法輪寺(当時は尼寺の正宗庵)に立ち寄り、しばらく滞在するうちに、ここに仏殿や山門を設け、故郷から仏像も取り寄せて本尊とし、息子たちの冥福を祈ることにした。

後年、本尊の釈迦三尊像の釈迦牟尼像の台座から「以後為造立金子千枚 此御寺牛刀二日置之也 六月吉祥日」と書かれた一文が見つかり、乙和御前が将来、荒廃した寺を再建するために金千枚を埋め、そのありかをひそかに記していたものと分かった。

金千枚を見つけようと、あちこちが発掘されたが、今も見つかっていない。

謎の一文を読み下し文にすると「もって後の造立のために金子千枚 この御寺の牛刀二日にこれを置くなり 六月吉日」といったところでしょうか。(この項続く)


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 法輪寺=名古屋市守山区で

(08:00)

2023年01月09日

埋蔵金関連ニュース

オランダ国立公文書館が、第二次大戦中にドイツ軍の兵士が隠した財宝の地図を78年ぶりに公開し、アマチュアのトレジャーハンターが現地に殺到する騒ぎが起きている。

報道によると、財宝は、ドイツ兵4人が1944年8月にロッテルダムのアーネム支店から略奪した時計やダイヤモンド、金銀などで、現在の価値にして数百万ユーロに上るという。

1945年4月、連合軍の進攻でドイツ軍が敗走に転じると、4人は財宝をドイツとの国境に近い、オランダ東部の田舎町オンメレンの野原に埋めて隠したという。

地図では、財宝のありかに赤いバツ印が付けられ、3本の木の一番端の木の根元に埋めたこと、この木が幅約1.2メートルの道沿いに立っていることも示されている。

木はポプラの木で、財宝を埋めた深さは70~80センチだという。

ドイツに略奪された資産を追跡するオランダの機関は、4人のドイツ兵のうちの1人、ヘルムート・S(フルネームは未公表。残る2人は戦死し、1人は行方不明)からこの地図を入手した。

同機関は1947年、この地図をもとに金属探知機を使って探したり、ヘルムート・Sに隠し場所を案内させたりしたが、発見できなかったという。

財宝の埋蔵場所は現在、オンメロンの元市長が運営する財団の所有地で、トレジャーハンターが財宝を見つけた場合はこの財団に報告しなければならないが、元市長は「簡単には見つからないだろう」と話している。

オランダ国立公文書館は毎年1月3日を「オープンアクセスデー」に定めており、今年は財宝の地図のほかにも1300ページに上る文書が公開された。

(興味深いニュースがあったので訳してみました。こんなに詳しい宝の地図はめったにないと思うのですが、それでも見つからないのはなぜでしょう)


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 オランダ国立公文書館が公開した地図(同館のフェースブックから)

(09:00)

2023年01月08日

源敬公廟の埋蔵金探しに関わる余談です。

源敬公廟を訪ねた後、定光寺の本堂の西側にある開山堂に「朝日さし夕日かがやく…」という埋蔵金伝説にお決まりの歌が書かれた扁額を見つけ、これは数百万両の軍用金のありかを示した暗号ではないかと少し興奮しました。

前述の「定光寺誌」によると、沓掛村(現在の豊明市)の観音堂にまつられていた観音菩薩が明治6(1873)年、この開山堂に移され、その御詠歌(一般信者が霊場巡礼の際に唱える歌)が記されているようです。

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 開山堂に掲げられた額。埋蔵金のありかを示しているかと思いきや。

解読文を以下に記します。(古文書の学習がここで少し役立ちました)

城東新西国 第二十七番

朝日さし 夕日かがやく この山に

花のとぼそも 開くなるらむ

山主 廉堂

「花の枢(とぼそ)を開く」というのは「花でいっぱいにする」といった意味でしょうか。

「廉堂」は明治34(1901)年から昭和25(1950)年まで定光寺の住職を務めた廉堂全能のことだと思われます。

もう一つ、今回の埋蔵金探しとは関係ないのですが、定光寺の近くに織田信長の末裔が館長を務める「西山自然歴史博物館」があり、織田信長のデスマスクが保管されているという話(本当なら、歴史的大発見ですが)をネットで見つけ、ついでと言っては失礼ですが、足を延ばすことにしました。

博物館の入り口には「古代女王卑弥呼の石像安置」「応永の乱出陣戦勝祈願地」などと記された看板も立てられ、否が応にも興味を掻き立てられましたが、人の気配はありません。

看板の連絡先に電話すると、館長さんが出られて「コロナの影響で現在は休館中。コロナが収まったら来てください」とのことでした。

埋蔵金についてのお話も何か聞けるのではないかと思っていたので、残念です。(この項終わり)


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 西山自然歴史博物館の入り口=いずれも愛知県瀬戸市で


(09:00)

2023年01月07日

焼香殿のさらに奥の一段高くなった場所に源敬公墓があります。

円形墳墓で、墳丘の上に石標が立ち、周囲には角柱の石柵が巡らされています。

さて、ここで数百万両の軍用金が埋蔵されているという石垣を捜しますが、畳2枚ほどの大きさの石も、隅に鉄のクサビが打ち込んであるという石も見つかりません。

もしかしたら地中に埋まっているのかもしれませんが、シャベルを使うわけにもいかず、埋蔵金探しはここでデッドエンドとなりました。

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  源敬公墓(尾張徳川家初代藩主義直の墓)

ところで、源敬公廟について調べていて気付いたことがあります。

それは、興正寺の大日堂の地下に埋まっているとされた尾張徳川家の駿府御譲金との共通点です。

源敬公廟は、定光寺付近の風光や自然を愛した徳川義直が自らの墓地の場所に定めたとされますが、太田正弘編「定光寺誌」(1985年)では違う見解が紹介されています。

すなわち、当時は関ケ原の戦いや大阪の陣を知っている人々がまだ生存していた時代で、定光寺は尾張徳川藩主が名古屋城から脱出した時の落ち着き先として設定されたものではないか、というものです。

興正寺は、尾張徳川家2代目藩主光友の帰依を受けて創建され、やはり、名古屋城と大日堂がトンネルで結ばれていたという伝説が残されていました。

さらに、興正寺の大日如来像が銅製なのは、いざというときに大砲にするためだという説もありましたが、源敬公廟の建物の屋根も銅板(銅の隠蔵が目的という説も)で葺かれています。

これだけ似通っていると、埋蔵金伝説が眉唾なのも同様かもしれません。(この項続く)

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 該当するような石は見つからず=いずれも愛知県瀬戸市で


(09:00)

2023年01月06日

前回のブログでは一言も触れませんでしたが、定光寺には埋蔵金伝説があり、ウィキペディアにも記されています。

埋蔵金が埋まっているとされる場所は、正確には源敬公廟で、とりあえず「源敬公廟の埋蔵金」と名付けてみました。

ウィキペディアが参考文献としている中野雅夫著「革命は芸術なり 徳川義親の生涯」には次のように記されています。

「定光寺の山頂にある藩祖義直の墓に、石垣をめぐらせたうちの一個が、畳二枚ほどの大きさで、隅に鉄のクサビを打ちこんである。その一枚の石をはずすと、なかに数百万両の軍用金が埋蔵してあるという」

ただし、これ以外の出典が今のところ見つかりません。

それにしても「畳二枚ほどの大きさ」「隅に鉄のクサビ」とかなり具体的に説明しており、これが本当なら、簡単に発見できそうです。

さて、本堂わきの「御廟御門」の入り口に置かれた木箱に拝観料100円を納め、石段を登って「獅子の門」「竜の門」をくぐると、いよいよい源敬公廟です。

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 源敬公廟の竜の門

慶安3(1650)年に徳川義直が亡くなった後、2年間かけて造られたもので、明から帰化した陳元贇(ちんげんぴん)が、儒教の祠堂に倣って設計したと伝えられています。

正面に立つ焼香殿(拝殿に相当)は寄棟造の直方体。

屋根は緑色の銅瓦葺で、魚形の正吻(せいふん)や蕨手(わらびて)を載せています。

日本の神社や寺院には見られない建造物で、いったい自分は今どこにいるのかと不思議な感覚にとらわれます。(この項続く)

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 焼香殿=いずれも愛知県瀬戸市で

(09:00)