2022年08月30日
新川町史の中にも、日吉神社の埋蔵金に関する記述をみつけました。
内容は清洲町史とほぼ同じですが、農民の2人の名前は与左衛門と重兵衛で、少し違っています。
また大判の重さの合計は2貫5100匁(約9・4キロ)で、現用の金貨に換算して516両になったと記されています。
この話は、文政4(1821)年作成の「黄金之由緒」として残されているとあり、その中に描かれた「黄金の図」の写真も掲載されています。
日吉神社の境内から大判が見つかったという話は、実際にあった出来事とみて間違いないでしょう。
ただし、大判に「監物所持」と墨書きされていたという話や、小笠原監物がお家の再興を念じて埋めたという話は出てきません。
お家再興のために資金を埋めるというのは、埋蔵金伝説ではよくある話ですが、少し考えるとおかしな点に気付きます。
監物が仕えた松平忠吉(徳川家康の4男)は関ヶ原の戦いで功を上げ、慶長5(1600)年に尾張清洲藩主に封じられました。
しかし、病気を患い、慶長12(1607)年に28歳の若さで亡くなると、子供がいなかったため(慶長2年に生まれた唯一の子供は生後12日で早世)、お家は断絶となります。
後継ぎがいないのですから、普通に考えるなら、再興しようにも再興しようがありません。
しかも、藩主を継いだのは弟の徳川義直(家康の9男、後の初代尾張名古屋藩主)で、忠吉の家臣の多くはそのまま義直に仕えています。
さらに小笠原監物について調べる中で、決定的な矛盾点が見つかりました。(この項続く)
「黄金之由緒」に描かれた黄金之図(「新川町史」から)
内容は清洲町史とほぼ同じですが、農民の2人の名前は与左衛門と重兵衛で、少し違っています。
また大判の重さの合計は2貫5100匁(約9・4キロ)で、現用の金貨に換算して516両になったと記されています。
この話は、文政4(1821)年作成の「黄金之由緒」として残されているとあり、その中に描かれた「黄金の図」の写真も掲載されています。
日吉神社の境内から大判が見つかったという話は、実際にあった出来事とみて間違いないでしょう。
ただし、大判に「監物所持」と墨書きされていたという話や、小笠原監物がお家の再興を念じて埋めたという話は出てきません。
お家再興のために資金を埋めるというのは、埋蔵金伝説ではよくある話ですが、少し考えるとおかしな点に気付きます。
監物が仕えた松平忠吉(徳川家康の4男)は関ヶ原の戦いで功を上げ、慶長5(1600)年に尾張清洲藩主に封じられました。
しかし、病気を患い、慶長12(1607)年に28歳の若さで亡くなると、子供がいなかったため(慶長2年に生まれた唯一の子供は生後12日で早世)、お家は断絶となります。
後継ぎがいないのですから、普通に考えるなら、再興しようにも再興しようがありません。
しかも、藩主を継いだのは弟の徳川義直(家康の9男、後の初代尾張名古屋藩主)で、忠吉の家臣の多くはそのまま義直に仕えています。
さらに小笠原監物について調べる中で、決定的な矛盾点が見つかりました。(この項続く)
「黄金之由緒」に描かれた黄金之図(「新川町史」から)
(08:00)
2022年08月29日
ここで日吉神社(正式名称は「清洲山王宮 日吉神社」)の由緒について簡単に説明します。
発祥は宝亀5(771)年で、文明10(1478)年に清須城が尾張の守護所となってからは、清洲総氏神として信仰を集めてきました。
山の神を祀り、その使いを申(猿)としていることから、境内には様々な猿の神像が置かれています。
神社の一角には、女性がこの石に触れると立ちどころに懐妊するとされる「子産石」(豊臣秀吉の生母もこの石に触れて授かり、幼名を「日吉丸」と名付けたとか)があり、私が訪れた日も、何組かのカップルの姿が見られました。
さて、日吉神社で見つかった埋蔵金について、郷土資料にはどのように記されているのか。
清須市立図書館で、清洲町史の中に以下のような記述があることを教えていただきました。
埋蔵金が見つかったのは享保11(1726)年4月11日のこと。
清洲山王社(日吉神社)領の農民から、境内で薪になるものがあればいただきたいと申し出があり、神主の丹羽外記は本社の生垣の脇にあった古木の切り株を掘り取ることを許可した。
午後2時ごろ、十兵衛と八衛門の2人が金を掘り出したという連絡が社務所にあり、祢宜たちが驚いて調べてみると、大判39枚、切金16枚が確認された。
祢宜たちは垣根を作って立ち入り禁止にし、12日にも慎重に調べたところ、5枚の切金がさらに見つかり、計60枚になった。
外記は発掘した金を持参して寺社奉行に届けた。
藩では金を享保小判に替えて、すべて山王社に還元することにたが、その額は300両余り。
このうち30両を外記に、10両ずつを十兵衛と八衛門に与え、残りの250両余りを清洲の庄屋に預けて、山王社の修繕費として積み立てた。(この項続く)
拝殿の両脇には狛犬ではなく猿が置かれています(愛知県清須市で)
発祥は宝亀5(771)年で、文明10(1478)年に清須城が尾張の守護所となってからは、清洲総氏神として信仰を集めてきました。
山の神を祀り、その使いを申(猿)としていることから、境内には様々な猿の神像が置かれています。
神社の一角には、女性がこの石に触れると立ちどころに懐妊するとされる「子産石」(豊臣秀吉の生母もこの石に触れて授かり、幼名を「日吉丸」と名付けたとか)があり、私が訪れた日も、何組かのカップルの姿が見られました。
さて、日吉神社で見つかった埋蔵金について、郷土資料にはどのように記されているのか。
清須市立図書館で、清洲町史の中に以下のような記述があることを教えていただきました。
埋蔵金が見つかったのは享保11(1726)年4月11日のこと。
清洲山王社(日吉神社)領の農民から、境内で薪になるものがあればいただきたいと申し出があり、神主の丹羽外記は本社の生垣の脇にあった古木の切り株を掘り取ることを許可した。
午後2時ごろ、十兵衛と八衛門の2人が金を掘り出したという連絡が社務所にあり、祢宜たちが驚いて調べてみると、大判39枚、切金16枚が確認された。
祢宜たちは垣根を作って立ち入り禁止にし、12日にも慎重に調べたところ、5枚の切金がさらに見つかり、計60枚になった。
外記は発掘した金を持参して寺社奉行に届けた。
藩では金を享保小判に替えて、すべて山王社に還元することにたが、その額は300両余り。
このうち30両を外記に、10両ずつを十兵衛と八衛門に与え、残りの250両余りを清洲の庄屋に預けて、山王社の修繕費として積み立てた。(この項続く)
拝殿の両脇には狛犬ではなく猿が置かれています(愛知県清須市で)
(08:00)
2022年08月28日
暑さが峠を過ぎたこともあり、いよいよ埋蔵金伝説の調査をスタートします。
第一弾は、現場が私の名古屋市の自宅から近いこともあり、日吉神社(愛知県清須市)の埋蔵金を選びました。
時間にしてわずか半日ほどですが、なかなか有意義な調査ができました。
一方で足りない情報もあり、今後の宿題にしたいと考えています。
この埋蔵金伝説の内容をもう一度おさらいします。
関ヶ原の戦い後に清洲城主となりながら、慶長12(1607)年に病没した松平忠吉の重臣、小笠原監物(吉光)が、いつの日かの主家再興を願って、その資金として埋蔵された。
地元に残る古文書によると、享保11(1726)年、村人が日吉神社の慶長大判や中判など、合計60枚を掘り当て、大判には「監物所持」と墨書きされていた。
再興資金なら、60枚では少なく、もっと埋まっているのではないか。
そう考えた名古屋市の郷土史研究家のグループ約20人が1979年6月、金属探知機を使った探索を境内で行ったが、見つかったのは宝永通宝の10文銭1枚と、古い刀一振りだけだった。
(八重野充弘著「日本の埋蔵金100話」から)
日吉神社を訪ね、職員の方に江戸時代に大判を掘り当てたという場所を教えてもらいました。
本殿の裏、北西の隅に当たるところです。
44年前、「11PМ」という番組の中で行われたという金属探知機による探索もご存知でした。
「境内のいろんな場所を調べたが、見つからなかった。その後も何か見つかったという話は聞いていない」ということでした。(この項続く)
大判が見つかった場所(愛知県清須市の「清洲山大宮 日吉神社」で)
第一弾は、現場が私の名古屋市の自宅から近いこともあり、日吉神社(愛知県清須市)の埋蔵金を選びました。
時間にしてわずか半日ほどですが、なかなか有意義な調査ができました。
一方で足りない情報もあり、今後の宿題にしたいと考えています。
この埋蔵金伝説の内容をもう一度おさらいします。
関ヶ原の戦い後に清洲城主となりながら、慶長12(1607)年に病没した松平忠吉の重臣、小笠原監物(吉光)が、いつの日かの主家再興を願って、その資金として埋蔵された。
地元に残る古文書によると、享保11(1726)年、村人が日吉神社の慶長大判や中判など、合計60枚を掘り当て、大判には「監物所持」と墨書きされていた。
再興資金なら、60枚では少なく、もっと埋まっているのではないか。
そう考えた名古屋市の郷土史研究家のグループ約20人が1979年6月、金属探知機を使った探索を境内で行ったが、見つかったのは宝永通宝の10文銭1枚と、古い刀一振りだけだった。
(八重野充弘著「日本の埋蔵金100話」から)
日吉神社を訪ね、職員の方に江戸時代に大判を掘り当てたという場所を教えてもらいました。
本殿の裏、北西の隅に当たるところです。
44年前、「11PМ」という番組の中で行われたという金属探知機による探索もご存知でした。
「境内のいろんな場所を調べたが、見つからなかった。その後も何か見つかったという話は聞いていない」ということでした。(この項続く)
大判が見つかった場所(愛知県清須市の「清洲山大宮 日吉神社」で)
(08:00)
2022年08月27日
不勉強の誹りを免れないのですが、このブログを続ける中で、日本のトレジャーハンターのもう一人の草分け的存在である橘高章(きったか・あきら)氏のことを知りました。
日本トレジャー・ハンティング・クラブ(八重野充弘氏が代表を務める日本トレジャーハンティング・クラブとは別団体)の会長を、長年にわたって務めた方です。
往時は、埋蔵金の専門家として新聞や雑誌に寄稿する一方、テレビ出演も頻繁にこなしていたようです。
ただし、埋蔵金探しに対しては、八重野氏のようなプロではなく、あくまでアマチュアの立場。
東大助手や短大の助教授を務めた後、出版社の「たんさく」を経営し、畠山清行氏の「日本の埋蔵金」をテーマごとに抜き出したブックレットを発行しています。
ご本人の了解を得て、このブログに橘高氏のホームページへのリンクを張らせていただきました。
ホームページは開店休業状態で、リンク切れも多いのですが、橘高氏本人が埋蔵金を探索する様子を記録した写真や映像を見ることができます。
そんな橘高氏は六年前に、これまでの活動の集大成ともいえる「埋蔵金の研究」を出版しています。
40ページのブックレットで、一般向けの本とは言い難いのですが、徳川家康や豊臣秀吉などの埋蔵金の在りかについて、40年近くにわたる自身の経験をもとに、独自の推理を展開しています。
その幾つかは正解ではないかと思わせる確かな説得力があります。
(09:00)
2022年08月26日
金属探知機の話の続きです。
金属探知機を使ったコイン探しは、欧米などでは誰もが楽しめる趣味としてメジャーなようで、ときどき子供が数百年前のお宝を発見したなどというニュースも流れます。
英国では考古学遺物の9割近くが、金属探知機を携えたアマチュアのトレジャーハンターによって発見されているそうです。
残念ながら、わが国ではそこまでの市民権を得ていないようです。
金属探知機の通信販売会社のサイトを見ていて、以下のような気になる記述を見つけました。
「山城跡や神社、寺などの境内を無許可で金属探知機を持ち込み、有価金属を探すユーザーがいますが、これは明らかに違法です。許可なく他人の土地に入り地面を掘ることは器物損壊罪が適用される場合がありますので注意が必要です」
この前半部分ですが、山城跡や神社、寺などに金属探知機を持ち込んで古銭などを探しても、「明らかに違法」とは言えないでしょう。
一体、どういった法律を根拠にしているのでしょうか。
さらに後半部分です。
例えば、他人の所有する山に入って2mもの穴を掘ったら、犯罪行為に近いかもしれませんが、10~20cmほどの穴を掘って元に戻すというのなら、どうでしょうか。
もちろん、金銭的に価値のあるものを見つけたら、道で落とし物を拾った場合と同様、警察に届けるというのが大前提です。
周囲から白眼視されないよう、何らかのルールの設定、モラルの構築が必要な気がします。
金属探知機を使ったコイン探しは、欧米などでは誰もが楽しめる趣味としてメジャーなようで、ときどき子供が数百年前のお宝を発見したなどというニュースも流れます。
英国では考古学遺物の9割近くが、金属探知機を携えたアマチュアのトレジャーハンターによって発見されているそうです。
残念ながら、わが国ではそこまでの市民権を得ていないようです。
金属探知機の通信販売会社のサイトを見ていて、以下のような気になる記述を見つけました。
「山城跡や神社、寺などの境内を無許可で金属探知機を持ち込み、有価金属を探すユーザーがいますが、これは明らかに違法です。許可なく他人の土地に入り地面を掘ることは器物損壊罪が適用される場合がありますので注意が必要です」
この前半部分ですが、山城跡や神社、寺などに金属探知機を持ち込んで古銭などを探しても、「明らかに違法」とは言えないでしょう。
一体、どういった法律を根拠にしているのでしょうか。
さらに後半部分です。
例えば、他人の所有する山に入って2mもの穴を掘ったら、犯罪行為に近いかもしれませんが、10~20cmほどの穴を掘って元に戻すというのなら、どうでしょうか。
もちろん、金銭的に価値のあるものを見つけたら、道で落とし物を拾った場合と同様、警察に届けるというのが大前提です。
周囲から白眼視されないよう、何らかのルールの設定、モラルの構築が必要な気がします。
(10:00)